ビジネスコンサルト。
PDCAサイクルというものを聞いた事があると思います。
計画→実行→評価→改善→(以下サイクルリピート)ですね。
事業の形態として、一見当たり前な流れが、しかし、日本人の気質には合っていない。という評価も見受けたりしますが、その前に、業種によっての適合性評価がすぽっと抜け落ちていたりもする。
とりあえず、基本的な概念は同じでも、細部に関してはコンサルトの個性差があったりするわけで。
そんななかに、最近では[確認会話]というものがあるそうです。
特に《日本語の特性》に、日本人が必要な行動として必要性の重度が高いもの。
・・・・・・・え~?
聞いてみて、あくまでも私個人の感想になりますが、正直な所、これがアドバイスとして必要な時代がおかしい。
と、感じるのも、そもそも、私自身は両親、祖父母からたたき込まれていた。
これも印象は変わるでしょう。なにが?
《たたき込まれた》というのは、あえて教えられていた事ではありません。生活の環境に、嫌でも漠然とした印象に身についていた考え方。
このように、言葉の印象で、意図は伝えたい側と受け取る側でかならずしも一致しているとは限らない、これが私個人としてすでに《当たり前》なのです。
当たり前だから、言葉を選ぶ。
どの言葉を使えばより正確に伝わるのか。
そのために必要なのは、言葉の持つ意味を理解する必要がある。その結果、「いつの間にか」に《言葉の解釈が広い》ことで、へりくつ魔王という言葉使いに対する呼ばれ方になっているw
というわけで、「確認会話」とは、そもそもに『お互いの意図が通じているのかを確認し合う会話』なのだそうです。
そう、『言葉の解釈が広い』日本語だから。
もっとかっこよく言えば曖昧な言葉が多すぎるため、言った人と聞いた人で、意図が正しく伝わらない。
それこそ、いまではほぼ聞かなくなったシチュエーション。
爺ちゃんが婆ちゃんに「おい、あれ頼む」と、『お茶入れろ』という意図が婆ちゃんには長年の経験で伝わってしまう悟りの境地w
ある意味、これが日本人の相手の意図や気持ちを察する能力になっているわけですが。
ここで、婆ちゃんは「はいはい、お茶ね」と、一言添える。
これが《確認会話》になります。
つまり、爺ちゃんの「あれ」は、婆ちゃんの悟り能力で「お茶」だと思っても、「違う事かもしれない」という可能性に対する確認しています。
だから、婆ちゃんが「お茶を入れるよ」と言ったことに、爺ちゃんは「ちっげーよ、水だ、水!」と、ここで意思の照合が成立する。
この意思の照合を、意識すること無く自然に行っていた世代だから(タブンw)。
そんな様子を見て育っているから。
なんとなく身についている私、えっへん♪
『はじめっから「お茶くれ」て言えばいいじゃん』と思う感性も大事。
『ちゃんと聞いてるんだからいいんだよ♪』と言う婆ちゃん。
そんな生活の中にいた幼少期の賜物です。
聞く事で、間違った事でトラブルとして大きくなる事を回避出来る。
それを、感性に染みついている。
しかし、時代はあえてこれをお勉強の場を設けて意識しなくてはいけない時代という事か。
本来、長い生活の中で身につく感性を、お金を払って自覚しようだなんて、受講料がもったいねー!
こんな無駄遣いをしているからお金が貯まらない(ぉぃ)。
まあ、速攻で意識して貰わなくてはいけない環境で、取り急ぎに意識させる手段に使う受講料としては「無駄」ではないのか。
しかし。
自然に身についていると、より確認会話っぽく例えましょうか。
「あるぇ?次に乗る電車って、「上り」だっけ?」
「ああ、「3番線」だな」
【同じ事でも、表現を変える】
ちなみに、複数の番線がある中で、上り線だと思っている意識を、よりピンポイントに「3番線」と、絞り込んでいるのは相手の気遣い。
こんな風に、自然に会話をしている人、いますよね。
改めてこんな会話を確認会話と定義付けなくても、無意識にできるはずなのです。
しかし現状は、業務の場であまりにも解釈の違いによるズレが多すぎる。
ぶっちゃけ、家では「アレ」で通用している部長さんが、部下にも同様に。
しかし、「アレって◎◎の資料っすか?」
明らかに解らない事を聞けない若者が増えているのか。
これはこれで社会の変化がヤバイのではなかろうか。
親元を離れて自立する時期が早すぎる。
いわゆる爺ちゃん婆ちゃんから早々に自立した親が、爺ちゃん婆ちゃんのそんなやりとりが当たり前すぎて、まだ身についていない親がマネできるはずも無く、子供はもっと無縁のモノとなる。
知識もそう。爺ちゃん婆ちゃんの知恵は、現代でも十分に便利な恩恵があるのに。
有効性はあるのです。だって。
「いやいや、ここはこうすればよくね?」
手際を教えて、初めて感心する後輩君。
「あ、そんなやり方があるんスね」
この手際は、私自身は先人から教わっているモノですよw
途切れてませんか「先人の知恵」。
もっと簡単な話。
物事に「これは禁止」とたしなめられていることは、先人のやっちゃ危ないという経験の継承です。やらかしたからこそ、そのやり方は危ないと忠告してくれる事。命を落とす経験に「お前、それはダメだ」となっている経験の積み重ね。
自分ではこうしたほうが確かに効率が良い。
ならば、それがなぜダメと言われる行為なのか。
考えてみましょう。
そして、「聞いてみたら」どうでしょう。
まさにこれも確認会話。
ただし、聞いた先人(センパイ)も、「いやー、前から言われてることだし」なんて曖昧な意識しか持っていないなら。
そっと距離を置くことをお勧めしますw
そのセンパイも確認が出来ないからしていないこと。
そのミスは、いつかやらかします。
禁止されている「理由」の部分を考えましょうってことで。
例えば、電気屋さんの電気工事は、ブレーカーを落として停電している事を確認します。通電状態だと痺れるから。電圧次第に、痺れるだけならまだいいのですが。
・・・それだけではないんですよ、「ショートした事で他の危機をぶっ壊した」時の責任を考えてないでしょ。
その壊れた機器が、例えば会社のデータが集約されているクラウドサーバーだったら。損壊して「データ」の程度は、怒られるだけじゃすみませんよぉ、まじで♪
ブレーカーを落とせは、そんな経験が含まれているかも知れません。
学習と意識しなくても、生活環境の中で身についてしまっている感性。
子供が感じて身につけていく生活が変わっている。
それこそ、「教えなきゃわかんねぇ」の部分でははく、その前に自分がどう考えるかという環境がない。
同じ事でも「表現を変えた」だけで、それぞれに教えなければ理解しない、教わっていない事。その解釈の「応用力の無さ」が非常にもどかしい。
そう、教えて考えれば「これ」と「あれ」は、結局同じ事を言っていると判らない感性も、教えない以前に生活の中で違いを検討することが出来ない事がヤバイ。
《表現が違うだけで同じ事を言っている》
表現が違うから同じ事なのかを「確認する会話」が必要。
爺ちゃん婆ちゃんの会話に確認会話なんて「概念」すらなかったのに成立していたことを、さて、どう思いますかってね。
継承できる事がぶっつり途絶えている。
ビジネステクチャ以前に、社会の変化がオソロシイ今日この頃。