とりあえず、喪中を考慮してご挨拶はココマデ(ぇ)
と言うワケで、新年の初詣。
基本的には無宗教の私ですが、あえて言うなら、神道派とでも言いましょうか。
ただし、神道の神様というのは、いわゆる「願いを叶えてくれる」神様では無く、「願掛け」を行う相手です。
神主さんとかいたら、「ちげぇよw」とか言われそうですが、私はお婆ちゃんにそう仕込まれています。
だから、本場(?)の神主さんがなんと言おうと、私の解釈は変わらない(マテ)
「願掛けをする相手」なのです。
ちょっとややこしくなりますが、新年の初詣で「願う」のは、今年一年の無病息災でも構わない。
しかし、それだけでは、神様は困ってしまう。
「無病息災のために『私はこうするんだよ』」と。
もう少しわかりやすく言えば。
「希望の学校に進学できるように『勉強する』」と。
願い成就のために「自分がどんな努力をする」のかを誓う事。
無病息災のために、神様が何かをしてくれるわけではないのです。
一方的に願いを伝えたって、そりゃあ、神様だって困ってしまいます。
自分の努力を棚上げして、ただ「願いを伝えて」叶えてくれる神様なんて胡散臭いのですよ?
それは、きっと神様のフリをしている悪魔です。
仏教などもその通り、『地獄に墜ちないように精進する』のが教え。
ワンチャン、生前の行いに、クモが糸を垂らして助けてくれるかも知れません。
つまり、なにもなく極楽浄土には行けないのです。
希望の学校に入りたいから勉強する!
だ、か、ら。学力が付くのです。
とまあ、ザレゴトはこのくらいにしてですね。
そんな婆ちゃんの仕込みに基づいて、私が初詣に行く「神社」は決まってくるわけですよ。まぁ、毎年同じ所なのですが。
まずは、生を受けた土地にいる「氏神様」のいる神社へ。
いちおう、祝詞を頂いているらしいのですが、私の一番古い記憶が3歳くらいからの頃になるので、7・5・3のお祝いに初めて日本酒を口にした神社。
ここ、毎年行っております。
基本的には、その生を受けた土地の氏神様の祝福を受けて生まれている。
むろん、ご先祖様のつながりもあるなかで、本来、引っ越しなどで土地の守り神がいるそのナワバリにヨソ者が入り込んでいるわけですから、引っ越したらその土地神様にご挨拶。
はい、婆ちゃんの仕込みです。
これを、引っ越してきた「親」がきちんと行い、土地神に認められていると、その土地の守り神様がちゃんと守ってくれる「仲間」になれるわけです。
土地を荒らすヨソ者との違いはココ。
その親から生まれる子供ですから。祝詞を頂くことで加護を得る。
私が引っ越しによってその土地を離れてもですね、逆に土地神様の祝福を得て生まれているわけですから、縁は切れない。
だから『新年の挨拶ぐらい行け!』というのが婆ちゃんの躾。
・・・もうね、このような集落的な風習って、残ってないのが残念ですねぇ。
なーんも気にせず、初詣に赴き、ただ願い事を託していくだけの日本人のあり方の変化は残念にも思う所。
で、氏神様にご挨拶を終えたら、今住んでいる地元の神社巡りをする。
ぶっちゃけ、こちらは神主さんのいない「社(やしろ)」でも、分地として、いわゆる休憩所のようにふだん神様がいない場所であっても、「意味があってそこが社になっている」ので、こっちは「この土地で生活している」ご挨拶程度に願掛けすらもなく。
だから、あくまでも婆ちゃん仕込みである事は書き残し。
厄除けだとかも、ぶっちゃけてしまえば「氏神」に頼ってしまえば、厄除けの有名な所など、回る必要は無い。
厄除けの能力にどれほど強力なご利益があろうとも、『氏神様の祝福には適わない』のです。
逆に、これをないがしろにして別の神様のところに行ってしまうから、氏神様はヘソを曲げる。ふて腐れる(爆笑)
厄除けの神様の効力しか得ていないから、それ以上の「厄」に対抗出来ない。
厄払いしたはずなのに、事故るとか、御利益を疑うような結果になる。
ある意味、氏神様なら防げたことが「知らんがな」と見限られている可能性すらある。
私にそれらを仕込んだ婆ちゃんはもう亡くなっているのですが。
いや、まあ、さすがになんとなく筋が通っているから、ないがしろにも出来ない先駆者の知恵。
これがどんどん失われている事が悲しいと感じる、あまりにも現実的になってしまった物の考え方が、神様を都合良く利用しようとしている世の中になりませんように。