とある豊橋のお方は毎昼休み会社の周りを歩いてらっしゃるそうですが、
ぱんださんも昼休みは汗だくになりながら工場の草を刈っております。
奥の方が茶色になっているのは刈ったところですな。
草を刈り、あえてそのままにしておくのです。
すると次の草、第二陣が生えてきて刈った草を持ち上げ乾燥が早いのです。
一か所にまとめておくとどうしても下の方の草さんがしめりけが取れないのであります
と草を刈っておりますと社長から
「ぱんだくん自ら草を刈ってくれるなんてすまないねぇ。工場内がきれいになったよ」
とおほめの言葉をいただくのでありますが、
なんてことないぱんださんはぱんださんで、この草を使って窯の焼成に使おうと思っているので一石二鳥であります。
と前回の窯焼成(薪窯焼成とは呼べません(笑))で、意外と草でもある程度までは温度があがることが判明。
むむ。なかなかいいぞと。
「草など邪道です」
と正統派のお方からはお叱りを受けそうですが、窯を焚いている人が正統派ではありませんので多めにみてやってください。
窯の構造を変えれば十分に使える素材なのではないかと思っているところであります。
そのすごく草いいな、と思っているのは
工場の空き地や、工場の外のスペースなどなど含めると草だらけ。
A地点→B地点→C地点→D地点と刈り終わった時にはA地点はまた草ぼーぼー(笑)
本来の草刈りの目的である「見栄えをよろしく」という視点からみれば困ったものなのですが、
草を燃料と考えている人からすると、これはありがたいぞと。
漆の職人さんが漆を塗る器に使う木について語っていたことがありますが
「東の木から西の木へどんどこと使っていって西の木がなくなりそうになるころには東の木がすっかり成長しているひと山買っておけば無限」
という言葉がやたらと僕の頭に残っていて、草ではあるけれども、昔の職人さんが生きていた「無限」と「循環」の中に身を置くことができていることがなんだかとてもうれしいのです。
エコということでもあると思うのだけれども
「地球の流れに乗っている感覚」
はとっても自然で、うれしいものです。
僕もいつか死ぬけど(まだまだ死にませんが)どこぞの大きな木の下に灰を埋めてくれとかではなく、名もない草になったり名もない木になって、薪になって窯に投げ込まれたり、骨がボーンチャイナの原料になったり(笑)
そういう循環のなかに還っていきたいなぁ。
そういう生き方のなかで「やきもの」という一度焼いてしまったら循環のなかにもどることのないものを作っていることをどう考えたらいいのだろ。
人が生きて、死んで、忘れられて、また違うところで人が生まれていくというごく自然である循環に
循環を断ち切った「やきもの」で
「自分が生きた」という痕跡を残すべく循環に抵抗するように努力しているということをどう考えたらいいのだろ。
と圏外より帰ってまいりました。さきほどは94位にいましたがはたして。

