生きることとは一体なんなのか。
きっと誰しもが一度は考えたことがあると思う。ガキンチョ以外だったら。
馬鹿馬鹿しくも思えるし、最大のテーマのようにも思うときもある。
で、ふと、真剣に考えてみた。
朝おきて、ご飯食べて、顔洗って歯磨きして、主婦は家事して、他は学校とか会社とか老人ホーム行って、引きこもりはそのまま引きこもって…
マクロで見たらすごく平和に見える気がする。
また、それ以前に僕たちは呼吸している。
冬なら冷たい空気をスーと取り込み、フーとはく。
呼吸だけにフォーカスを当てると、楽に落ち着ける。
いっぱいある。生きることとは?するともうそんなことはたくさんありすぎて…困るんだよ、ほんとに、ほんとに、それは、神様、教えてよ、わかんないんだ、僕こまって…だから生きることとは妥協だ。とは言っても、生きることが妥協っていやなんですけどね笑
例えば僕の友達aが、僕の友達bを殺しました(僕は殺したくないし、殺されたくない)。どっちが悪いですか?僕には分かりません。てかそもそも悪いってなんなのか。その、悪い、は人間の内面的なところよりも表層的なところにものすごく頼っているから悪いと言ってる。でも、どうして、内面より外面を優先するのか。それって僕たちが唯一、信用しあえるものとして現実世界という媒体を確固たるものとして置いているからなのか。なるほど、たしかに監視カメラの映像を証拠とすることがあるわけだ。でもいくらカメラの技術すごかったって、外見を信用する説明には到底なっていない。裁判では頭が制御不能だからこれはしかたないねーみたいなのある。痴漢でしてなくても自白したら証拠なくてもそれ終わる。自殺の人轢いたら普通よりも軽い刑。外見はどこへ?僕はすごく気持ち悪い。都合がいいから?その都合てなに?人々からの批判?なるほど、外面に影響されたわけだ。でもその批判は人々の同情からきてる。
僕は今日分かれ道にあって、右に進めば後が楽で、左なら後がきつい道に突き当たりました。要するに、坂の具合です。それが見え始めたくらいから考えて、右にしたんです。やっぱ最後楽なのがいいなって思ったから。でも左は左で、最初楽な誘惑があるんです。それに左を使う日もあるんです。そしてきづいたことは、なんとなく分かれ道のどちらかだけに意識が集中して、それに向かうかどうかの自問自答をくりかえし、結局これとした答えも見つからず、さいごはこっちでいっかってなるんです。本当にどうでもいいことです。ごはんのおかずの順番もテスト勉強もさいごは妥協なんだっておもうんです。妥協の繰り返し、それが今私の考える、生きるとはなにかの答えです。
あっ、これも、妥協か。