ペットとなる動物には「愛玩動物」なる名称がついてたりします。
愛玩、あいがん、アイガン。
一体、どんな意味なんでしょうね。
僕の中にはこんなイメージがあります。
「オモチャのように愛でて楽しむもの」
新明解 国語辞典では次のように書いてあります。
「身近に置いて、大切に取り扱い、慰みとすること」
僕の実家には猫がいます。
母親が拾ってきた猫。ロシアンブルーだと思われる捨て猫。
その猫も十年ぐらい生きているわけですが、最近、FIVという病気にかかっていたことが判明しました。
日本語名は「猫免疫不全ウイルス」。
人間でいうエイズですね。
これは、潜伏期間が五年から十年と長いのが特徴。
じわじわと体は蝕まれていくというわけです。
で、うちの猫はついに症状が発症したというわけです。
免疫不全というからには、免疫低下を伴い、些細な怪我でも危険なことになりかねないということ。
さて、別に暗い話をしたいわけではないので、僕の猫すけの人生ならぬ猫生ってのはどうだったのかな、ということについて喋って見ます。
保健所につれてかれるところを、母親に連れてかれて我が家へ。
その後は、もうわんぱくに、家を走り回り、壁をひっかきまわり、外では喧嘩だらけ。
バイクに跳ねられたり、去勢されてしまったりと、ツライこともあったけど、
きっと、自由気ままだったでしょう。
わがままをいって、好きなことをさせてもらって、ご飯にも困らず、安心して眠れる場所だったはず。
ああ、なんだ。
僕の猫ちゃんは、幸せだったんじゃないか。
「動物が幸せかどうかってのは、人間のエゴの賜物」
ああ、うるさいな。
おなかを広げて寝てたんだよ。
ゴロゴロ喉を鳴らして、近寄ってきたんだよ。
一緒に布団で寝てたんだよ。
幸せだったんだよ。
理屈なんていらない。
僕は決して猫左衛門を慰みものにしてたつもりはない。
家族の一員としてたとかそんな奇麗事みたいな考えももってない。
ただ、一人の生きているものとして、猫と関わってきた。
愛玩動物なんて言い方、飽きたら捨ててもいいみたいではないか。
僕は一個の存在として接してきたんだ。
そして、猫ちんは、今苦しんでいるとのこと。
自分で飯も食べれなければ水も飲めない。
別に同情をするわけでもなし。
お役目ご苦労といわんばかりに、僕は猫さんに会いにいこう。
生命には質もなければ尊厳もない、というのが僕の持論である。
死にそうだな、お前、と、こづいてやれば、
彼は満足してくれるだろうか。




