なんですって、奥さん♪

コンテスト参加者はそのつもりでね❤️

 

 

 

 

 

 

 

これは巨大な問題であり、何十年も前から続いています。私たちが決済プロセッサでこれほど多くの問題を抱えている最大の理由の一つは、VISA/MC が巨大小規模で複雑な私的契約の網を通じてビジネスを行っているからです。 では、政府の干渉を方程式から完全に取り除いたとしましょう。それでも、決済プロセッサが商人やその顧客に対して差別することを止めることはできません。

タブーなアートを擁護したことで、多くの友人を失い、多くの人が私と距離を置きましたが、再び私が正しいと証明されました。検閲が我々全員にやって来て、決済プロセッサーが世界中のあらゆるアーティストを攻撃し始めました。日本中がこれについて話し始めました。

 

 

ピンチになったり、不利になるごとに、ルールの方を変えたり、首根っこを抑えるような一斉の軋轢で「黙らせようとする」とき、まず「争い難そう」なところを間口にして、徐々に表現全般をがんじがらめにするのが常套です。

 

今回の国際クレジット会社経由の日本コンテンツの圧迫は流石に度が過ぎており、クリスタのような広く浸透してるアプリへの牛耳りで、制圧めいた姿勢を許せば、コンプライアンスでソフトパワーを失った米国産業のような荒地に陥ります。

 

表現を抑え込み出す時、「結託した」諸団体の思惑が非常に悪辣に蠢きます。

生徒さんらが漫画にもアニメにもゲームにもネットにも、自在な気持ちを持って「向かって行ってる」最中に、なんてことしやがるんだと、私は憤る次第です。

 

しなやかに伸びて、楽しく心遊ばせる自在に、「誰かたちの言い草の範疇しかダメだよ」なんてのは、窮屈で鬱屈がたまる地獄絵図になる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今、伸びようとしてる生徒のみんなにションボリりさせるような振る舞いを、周辺に許すのは、正直かなり悲しくって仕方ない。自在さと言う一番人が進んで伸びていけるものへの制約は排除願いたい。

手間隙が惜しいうちは、多分何人にもなれない。相応じゃないでしょうか。

手間暇が惜しくないほどの没頭が、「まだない」ものを生み出す土壌です。

 

今できないからなんですか。

今やらないのは自由ですよ。

 

で、やった人だけがこの景色に出会える。そんだけのことです。

 

 

昨日の岡崎での漫画講座は、講座の終わりがけに大雨が打ち付ける音でびっくりしました。続けて講座に参加してくださっていたラディスラフさんがこの回を最後に一旦帰国の運びなりました。最後は「トレースする」を皆でやりました。

 

ものを描きたい人、作り出したい人は「一から作り始める」ことに、最初は心を取られがちですが、最初は「好きなもの」から入ったほうがスムースですし、熱心に「その真似」から入っても、オリジナルのエッセンスとはきちんと温度差を生むものです。

 

ラディスラフさんがチェコの老舗アニメーションスタジオの紹介をしてくれたのでここに引用いたします。

 

 

この冒頭のアイコンの「ご挨拶」に激しく胸を撃ち抜かれました!

チェコはアニメの宝庫です。もっとたくさんの人に見られていい世界の宝です。

ラディスラフさん、ありがとう!

 

国家の文化の教養化は、収集から開始され出すものだけど、漫画アニメの「本来の魅了を捉え切れたこと」が未だかつて一度もない。全然「わかんない」連中が、外堀の向こう側から、「集めるくらいならできる」と触れられるとこだけ寄せてる現状だ。

 

アーカイブは「できる部分」だけど、分類までで済んでしまうし、そこでは魅力の真価に肉薄もできない。オノマトペ、漫符、擬音すら一部大学や漫画作家のテキスト化を果たしているけれど、網羅とも掌握とも言い難い現状では、「ここから」始めるのしかないのかも知れない。京都精華大学のような取り組みが正しい気がする。

 

 

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かくして、「漫画講座」は今4カ所で開講できております。ありがたいありがたい。

 

昨日は外国人向け講座でしたが、アメリカ人、チェコ人、UAE人ですが、日本語学校経由なので、言語的な抵抗値は低めで、意志の疎通も「漫画・アニメ」を基軸にしたところからの緩やかな繋がりなので、空気的に非常にやんわりしています。

 

将来的に、自身の目的も皆様々だし、かくありたし、と言い放つような動詞ではないけれど、昨日やった「4コマ漫画を描いてみる」なんて、まだキャラ造形もシナリオやネームなんて概念も教える前に、「起承転結」「序破急」ってのがあるよ、と軽くイントロして、すぐに描くことになるんだけど、三人とも楽しく描き出した。

 

そんでいいのよ、漫画だもん。

 

各自が知ってる漫画を描いてるだけで、各人の顔が綻んでるのが見られた。嬉しかったんだよ。

 

でね、2作目は当講座通例の「持ち回り」をやりました。

互いの作風も画風もペースもモチベも違うもの同士で、1コマづつを描く荒業。

 

「前の人がなにを描いたかわかりません」と聞いてくるので、「いいですね、じゃあ聞いてみましょうよ」と促す。

 

互いに漫画を成立させるために、相手の真意を知りに行く。知れないと、続きを書く自分が繋げられない。聞いてみて「あー」って互いに言うけど、わかりきってる風でもない。

 

でもそれでいい。

「繋がらなくても、描く」で自身の解釈を自在にする。

そのゆるさが大事であって、私の先導でも明察でもなく、漫然と「できるように進める」。

 

でね、時間は「自分一人で描く」の倍、かかっちゃうんだけど、ちゃんと完成するんですよ。

でね、私は講師なんで、「みんなの描いてる様子」をみるんですけど、「ほころんじゃってる」んです。

 

笑うしかなかったり、「自分以外の人の着想」に戸惑っちゃったり、国境も生業も経緯も違うもの同士が、その場で漫画を描いてる。そんだけなの。

 

互いに、互いのままでいるしかなくて、描きこむ人は綿密に描くし、描けない人は凝る力点をネタやアイディアに込めたり、そこはかとなく絵柄を寄せてみたり、突拍子のないバッドエンディングに走らせようとしたり、自由でね。

 

で、講座時間も20分誓うオーバーしちゃったけど、互いの作品の回し読みと、感想の言い合いっこをしてると、「相手のいい点」を笑いながら言うのね。

 

ここまで読んでて、お気づきでしょうが、私自身は作品に関与していないんです。

描いてる人同士の、「場の提供」で果たせてる役目で済むんです。

 

だって、「好きで来てくれる」人らの場所ですから、各自の「お腹に抱えもってる」好きさが発揮されるだけでいいのよ。

 

次回は再来週だけど、帰国の段取りもある参加者のコンディションから、次回でお別れの人もいるのね。でも、いつも通りやるつもり。ここ以外の、日本人同士の漫画講座でも、同じスタンスで同じ空気になる。漫画好きな人の居所は、どこも似通う空気になる。それを許す場所は、ひと工夫だけいるけれど、そこが私の絶妙さで役立てるのですな。

 

そして、私は、彼ら彼女らの漫画の先生なんです。いつまでもね、ずっとね。



 漫画家先生が生涯コツコツ貯めたはずの金庫に、税金が払えなく追いやるような金額しか残っていない無念は、どうにもやりきれないですね。