(古いエッセイの再掲載です)」
NHK教育でただいま放映されております「電脳コイル」みなさん御覧になってますか?
ヒッジョーに面白い作品です。
昨今のギャルがロボット乗ったり声優目指したりしてるという大風呂敷なだけでその実インナーワールドなアニメに「もうイヤー!」とのだめの真澄ちゃん的シャウトをしそうになってるアナタ!アニメが駄目なんじゃありませんことよ?電脳コイル。電脳コイルを御覧なさいな。
昨今の売れ線アニメってのはどうにも「スポンサーが売れると言ってるんで」とか「大臣クラスの人が『日本はアニメだ』とか言ってるんで」的勘違い作品が濫立しています。
こういう狂気のアニメ世界の中で、この作品が保ってる「え?だって本当におもしろいっていうのはこっちじゃないんですか?」とそう明な賢さをしめされると、キューンと恋にも似た胸のわしづかみにあうわけです。
うるさくがなったり、目立ってキワモノを連発するのではなく、作品自らが持つ「静かにしてても質の良さで自然と浮き立つ」ことがこの作品はできます。
昨今の洋画が全然面白くなくなったのは、「盛り上がりのパターン化」なんてのを家電会社がオーナーの製作会社がみすみすとさせているから、っていうのは安易です。そもそもそんなに「作る」ってことに執着がなかったんじゃないの?くらいに、ハリウッドはテレビドラマにスタッフが流れていってるんでしょうね。そういう「産業」の話で作品ってのにイントロしたくないのです。
「紅の豚」をDVDでみました。最初の20分の持つ、あの早いテンポのテンションは明らかに日本人のテンションじゃありません。宮崎監督の「狂いっぷり」に多くの人が「アハハハハ!」って一斉に狂える楽しさ、があるわけです。
甲板の上で水夫さんたちが「あっちに逃げた~」って矢印を作ってみせたり、島めぐりの観光艇の女性客に「かっこい~!」って黄色い歓声をあげさせる演出は、「宮崎節」のみのオリジナルであって、日本人になじみのあるものなんかじゃない。
それに似た「違和感」を電脳コイルには感じたのです。「自分が本当におもしろいって感じてるものはなんなんだろう」ってさんざん見返してからやっと「考える」ことができるのです。見てる時にはそんなことは考えもつかないし、考えたくもない。漫然とただ楽しいだけで十分。
演出をしてる人の底の深い「楽しませ魂」のようなもの・・・うーんと、地下に潜むマグマのようなうなりを持った、ただ明るく楽しいだけではなく、ねたみやそねみ、希望も絶望もひっくるめて、「まぁそんなこんなが全部ひっくるまって人間ってもんなんで」的大ざっぱさが、心地よくなることが人にはある。
電脳コイルの演出は一つの絵や、エピソードに頼らないで、「全体を見渡しながらが一番楽しい」というアニメ本来の魅力をイカンなく発揮している。キャラがピカイチ!でもなく、腐女子もオタクも喜ばない線の上に、真っ向から「アニメで勝負!!」って挑んでくるすごみがある。
物語を大切にして、謎も、秘密も、実に上手に隠ぺいしたり小出しにしたりしながら、なんのマニアでもないまま、その世界の愉快さへ見る人を選ばせずに、誘惑できる魅力がある。
これってこの時代にすごくない?一斉にアニメ世界が狂ってるって言うのにね。
そのさなかでのこの作品の製作っていうセンスがずば抜けていい。
宮崎アニメは「もののけ姫」「ハウルの動く城」とか「千と千尋の神隠し」あたりから、「作品の作り方、盛り上げ方」も一生懸命に発明に執心しすぎてて、「難解」とくくりやすくなってしまった。
実は「となりのトトロ」とか「紅の豚」くらいの凝り過ぎない演出加減が、日本人にはぴったりだし、そのくらいの「凝り方」くらいでいたまま、「その他の作品がみたい」というのが大方の日本人観客の希望なんだろうけれど、、宮崎監督はきっとそれを快しとしないでしょう。
作り手、っていうのは、物語の展開そのものについても、パターン化されていない、独自の発明を希求しちゃうものなんだろうけれど、それはそれ、作家個人以外の人にはとんと必要のないものであるのでどうしても送り手と受け手は凝ろうとするところが少しズレる。
その最中に、電脳コイルっていう作品が見せてくる「こんな感じのところでしょう?」というくすぐったいようなみせ方が、非常に的を得てくるのです。
作家根性でがんばったりするのではなく、スイと上質な「目線のよさ」が作品から香しく漂う。
1話めから女の子の走るしぐさひとつが描きわけられ、スカートの裾は風を受けて動きをしなやかに代え、意外なアイテムをみせ、意外なキャラクターが愉快に可愛く、そうしたすべての動きの向こうにこっそり野太い物語がデンと居座ってくれている。
あああ、なんという安心感のあるドキドキ。子供が楽しめるアニメのなんと懐の深いこと。
そういう凄みが電脳コイルにはある。
みせ方を凝る、とか売れ線で「失敗はしないでおく」程度の作り方でがんばるなどと言うひとりごちたことなんかしないで、スイッと「楽しませたい相手が誰か」が分かる作り方で作品が迫ってきたのはなんともうれしいことです。
話はそれますが、このあいだ車通りの多い道のガードレールに乗ったり降りたりするブラジル系の小学生が3人遊んでました。車通りが多いので、かなりヒヤヒヤする風景でしたが、公園で遊ぼうにも、ポルトガル語しか話せない彼女らは、きっと馴染めないでしょう。キャッキャとガードレールに乗ったり、降りたり。遊べる場所がどうしても限られる。
「危ないだろうがよ」と叫んでるおじさんとかいましたが、ふと、私は思うのです。
道路で遊べない程に車ばっかり優先しておいて、悪びれないでおくってのはどうよ?
もともと日本人ってのは道路で煮炊きしたり、子供達がおおはしゃぎしていいのが「道ばた」ってもんだったはずなのに、いつのまにか車がいい気になって、ビュンビュン走ってやがる。
公園で遊べだぁ?バッカじゃねえの?道路で遊べない程に車優先にしておいて、どんなふれあいが、交流が人に生まれるってんだ。道路を人に返せ!・・・・とブラジルの子をみながら思いました。
本末転倒。
ブラジルの子が悪く映るってのはオカシイんじゃない?
車のこの異常な堂々さ、こそが非難に値しない?道ばたって、もっとみんなのものなんじゃないの?
年輩の人たちはそういうの覚えてる癖に、みすみす今の状況を作ってきておいて、謝罪も改善もせず「このごろの子供ときたら・・」ですか?フッ。ちゃんちゃらオカシイです。そんな資格はありません。
あなたたちのベストでやってきて、今の日本のザマになりましたので、いっそあなたたちがしてしまった失敗の部分をコノヤロー的怒りでしっぺがしされたって文句言えやしませんよ?でしょ?
電脳コイルってアニメは、そうした「日本本来の道ばた」のような健やかさを感じるのです。
みんながいて、たわむれてて、走ってて、笑ってて、仲間はずれがあって、年寄りも、大人もいる。
さぁじゃあ実際、そんな世界がありますか?
大人が大人でいてくれて、責任を果たしてくれているところで、やっと子供は子供子供できるのです。
電脳コイル見てると、そういうものの見え方を考えさせてくれるのです。うむ。








