「弱りきってるとき」が凌げるだけで、全然違ってくるんだよね。
本当にダメな時ってのがある時に、回避できる過ごし方が担保できてないと、たった一度の落ち度なり、逃げ仰せなさがあるときに、袋小路みたいになって、やけになる。
やけだって、解決には違いない。
ただ、回復不能にな何かに遷移するのは、もうどうしようもないから、「そこまで追い込まない」に終始気を付けとくほかがない。
そして社会は「そのような猶予」を好んで渡してもくれない。
「そこまで追い込んだ側」なのにも関わらず、と「追い込まれた側」は思っておくほか、やりようもないのだ。
「自力でなんとかおし」の最中を、霧をかき分けるみたいな心持ちで、見通せなさのうちを、懸命に生きてるのも本当だ。苦しいながらも、もがきかたが健常者以上にみすぼらしく、悲惨で、陰惨であっても、それでもあらがっている。
「人間性の破壊」を社会制裁で行われたので、社会の方で辻褄を合わせてくれにかかればまだ救われるけれど、「その人が弱かったんだね」でパージし続けてきたものだから、もう取り戻せる体裁もないし、既存の「すでに被られた被害たち」に相当する賠償も期待し得ないだろう。
何より、「この世を辞した」人らへの現状回復はなしえない。
卑劣なんだ。かなり卑劣なありように感じてます。
「それでも生きていく」なる気概一つが、あるかないかで、全然たどり着ける場所が違ってくる。