(これは数年以上前に書かれたエッセイの再掲載です)
ゴールデンウィークにはひたすら漫画をかいていた。
遊びにも行かず、毎日毎日トーンを削ったりべた直しをしてまるまる一週間終わってしまった。
悲しくも苦しくもなく、ただ一生懸命な状態だった。
というのは、GW開けには東京に持ち込みに行くことになっていたからだった。
ここ1年、私は漫画を描いてはいても、なかなか結果にたどり着けないでいた。
結果というのは私の場合「雑誌に載る」ということである。
世間に言う「漫画好き」はきっと、漫画を沢山買って、沢山読む人なんだろう。
もう一歩踏み込むと自分で描いて、自分で売り込むなんてなことをする。これはこれで幸せな形だ。
でも私のいう「漫画好き」は、雑誌に出ることで、人に影響を与えて、その反響を自分にかみ砕かせることで、また一歩他のところへ自分を運ばせることになる。
雑誌に載っていない漫画家というのは、芸能界でテレビに出られない人と同じくらい抹殺された状況である。
でもまぁ、漫画は描いていたし、持ち込みもしていたのである。
それでも駄目だった。
これはつまり、一生懸命でも、正直でも、うまくいかない、報われないこともあるんだ!という、実に悲しい状況であった。
漫画のほか、ろくろくなにもしてないだけに、私の手元には何も残らない。
悲しかった。辛かった。
相談しようにも、私は仲間の多くを身近に作っていないことに気付いた。
もの造りを糧にしようとしてる仲間、というのは、たいてい田舎に住んでいないものだ。
田舎にはそれを許す土壌はない。
まして今年は4月から消防なんてものに入り、毎日時間をとられていた。
どんどん漫画の描けない状況が増えてくる、この田舎のムードに殺される!とひどく切羽詰まった気分に、毎日打ちのめされていた。
話してもわからない人達に囲まれて生活するのは地獄である。
理解もされない、話しもできない、ましてや「変わりもんだから」という得体のしれないカテゴライズしか持たない田舎のフンイキ。
漫画のことを話して「そうそう!」と言えないで5年も来ていたことに、ひさびさに「しまった!」と思った5月。
これは静かな暴力に囲まれていることに他ならない。
でもまぁ、私の決心というのも「フツー」ではないのである。
そもそもフツーではない男なので、「必ずうまくやってみせる!」と鼻息も荒く、漫画をひたすら描いていた。黙りながら。
GWが終わって、私は消防団の特訓をキャンセルして東京に行った。
メディアワークスという会社のガオ!と言う雑誌。
「絵は描けてます」というおホメに言葉にすがるつもりで、企画書を描き、FAXして、6月初旬に下書きを開始した。
アイディアを7稿めまで書き上げ、ネームに入ったのが7月中旬。
予告カットもそのころ送付した。
漫画が唐突に「順調」になった。
それは自分が準備してきたものが唐突に結果に結び付いたのである。
ペースも考え方も変えてないのに突然うまく回りだす瞬間を私は知っている。
それは幾多の「黙って」「悲しい」時間を過ごした向こうにいつもうっすらと立っている。
いつも出会えるとは限らず、放っておくと、ツイッといなくなってしまうものだ。
だから「ひたすら向かっておく」ことでしか、そこに行き着く手はない。
これは「あきらめない」ことでしか、出会えない狭き門なのだ。
漫画に限らない。なにしててもそうだ。
あきらめない、ことは、人をどこか他のところへと運ぶ。
続ける、ことは本当に大変なことだ。
やめちゃう、勇気も大変だけど、続けることも大変だ。
そうしたことを信じてるのも大変だ。信じ続けるのは本当に大変なことだ。
裏切ってくるかもしれない、思い通りにならないかもしれないことに、自分を賭けてゆくのは、不安で仕方がない。
「信じる」というのはたとえ裏切られても、その結果を受ける静かな決意がいる。
だれにも文句をいえず、へこみ、しゃがみ、うちひしがれることも、ありうるのだ。
P.S 前にこんなエッセイ書いてたんだな。
そう思うと、この夏に見た映画「ルックバック 」はまんま、わかる作品だった。
机に向かっとくことでしか、開始できないガッツがある。
かなっても、かわなわくても、机に向かっておくことで始まった物語は、多くの人の心を掴んだ。
これ以外になかったんだよ、に至る物語。
心当たりしかないよ。