(これは数年以上前に書かれたエッセイの再掲載です)
「アニメにはキョーミねーや」とかへいきでヌカしてるアホウがいたら、このエッセイは苦痛になるだろうから読まないでおくがいい。
で、自分が何を損したのか一生気付かないまま、オッ死んでいくがいい。
昨今のヌルイ映画なんぞより、この作品の方がはるかに多くの事象を捕らえているのだから。
「フリクリ」とは「エヴァンゲリオン」とか作った会社「ガイナックス」のオリジナルビデオアニメってやつ。
作品そのもののストーリーテリングはこのエッセイの主旨と外れるので割愛するが、見てない人はエレエ損してるので、あわててレンタル屋に駆け込むか、DVD買うかしてください。
フリクリは見た人のリアクションが大きくふたつに分かれる。「あ、わたしはシンドイ」って人と「スキー!」。ハマるひとにはたまらない作品にガッチリフィットする。
フリクリは今、この世の中の雰囲気を、作品の中にとりこんで、日本の一番ナチュラルな空気を見返すことのできる作品。
人は未来を生きていこうとするときに、今を捕らえられないまま進むのがとても恐いものだ。
だからなんとかして「今」の空気を捕らえようとあがくものであるが、テレビはバラエティしかやってないし、Jポップとかいう音楽はアップアップに食わしてくれる恋の歌ばかりにあふれてて、歌唱力ゼロのビジュアル系とやらが、自分のブザマぶりにも無頓着に裏声連発してるし、演劇もなんだか物語を追うので精一杯な役者やヌルーイ演出家が増えてしまって、どこで「今」を捕らえていいのかまったくとっかかりに困るのだ。
一時ほど「雑誌」が面白くなくなってきていることにみんなもう気付いてしまっているし、かといって「インターネット」ってのがどうやらただの「道具」ってことにも人々はそそくさと分かってきているし、どこにどう向いたらいいのかも、多くの人は「決めないで」生きるようになっている。
でもそれが生きてゆく「解答」にさせられるんだとしたら、人々はひどく怒るに違いない。
そんなものじゃないはずだ!と叫ぶにしては、その実、自分がそれよりも立派な考えがあるでもなく、振り上げたこぶしすら誰にもどこにもぶつけず、人知れずさげようとしてしまいがちなものだ。
つまり、人がまったく日々自然に接している文化とからは、日々欠損してゆく感情を穴うめるだけの情報量をもったものが与えられていない、ってあたりを認識させてくれるものが「いい作品」の前提だと思う。暴露そのものは、すでに知識人や文化人の仕事ですらない。
どっかの政治家のように「世の中は間違っている」とかのたまう前に、フリクリの冒頭シーン三分みるだけで、そんなことはとっくに問題外のラインまで押し出されていることがわかるはず。
それ、そこで生きていくしかない、という人間の感情の中にあって、笑いながら葛藤に差向い、「どうよ?どうよ?」と、とりたてて解答にもならないもので見ている人をアニメのような、現実のようなものでくるむ。
フリクリ、には昨今の元気のいい演劇の演出家、役者が自在に振る舞っていて、作品を厚くしている。今をとらえる、という本来なら、テレビやラジオ、演劇がしてきたはずのことを、日本ではついにアニメがやるようになってしまったのか!という印象がある。
「新しいこと」をアニメが発信しはじめてくる傾向は、昔から日本のアニメにはあったけれど、あーあ、テレビも映画もダメじゃん・・・ってフリクリみてるとホントに思う。
お前らみんなひっくるめてアニメにまけてるよ!っていいたくなる。
いや、こんなことやってるのはガイナックスくらいだろうけど、もともと作品が作られて、求められているのは「生きてゆく上でのヒント」がたくさん見いだせるから。
フリクリにはもりもりそれが入ってる。それもウンチクぶらずに笑いながらみるハメになる。
ピロウズの音楽にのせて生きるスピードを体験できただけでも、フリクリは見るに値する。
それは若い人がナチュラルに息をしているリズムのままだ。映像ってものが動画像と音声をふんだんに利用して、ワクワクしっぱなしなものを作ってもよい、とガイナックスはサラリと見せてくれている。
同じものを使ってもテレビはなにも役にたたない。映画もぼくらの役にたたないかも、と思われはじめている。フリクリはそれをしでかしている。
あ、でも、もうなんだか、俺はどーでもいいの、って人はみなくていい。そんな人にはオススメするものなんて何もない。
でも一抹にでも、希望の光を期待するつもりの残っている人は、是非見てやってくれ、フリクリ。拾う気持ちのある人になら、ものすごくたくさんの気持ちが拾い上げられる作品です。
事実、わたしはとても助けられていますもの。
P.S なぜ劇場版の2作品を推さないかは聞いてはならぬ!聞いてはならぬぞえ。
ガイナックスでなけりゃ、作れなかったカット跳び方!