(これは数年以上前に書かれたエッセイの再掲載です)
図書館から5冊も6冊も本を借りているのに、この2週間、どこへいっても持っていくのはこの本だけだし、バイトから帰宅して寝るまでに読んでいたのもこの本だけだった。
内容の語り口はたんぱくであり、過激に激高した表現もなく、読み物として激しさや劇的ではない。それでいてつまらなくない。とてもユダヤ的な「静的なようでいて、野心的な」内容だった。
(注:そうそう、表題にあるベングリオンっつーのはイスラエルの初代首相です)
言葉、文化、経済的につながりを持たない人々が、人工比で40倍のアラブ軍団と対峙し、戦争を生き残る様子なのだが、イスラエルがとても人為的な努力で「維持されようとしている」という、必死な、なおかつ遠慮もしない、そして相手に対しての拒否も連発しつつ、「周りのヤツラに粗そうも許さない」スタンスが興味深い。
イスラエル側も一枚岩ではない。
世界各国から「ユダヤ人」ってだけで寄り集まってきたのだ。まず言葉が違う。
アラブ側も一枚岩ではない。
しかしアラブは本当の意味でイスラエルをつぶしきる決意が足りないかな、と思った。
アラブの人には他のアラブ国家へ行く、という道がいつもあけられていた。
戦闘してても逃走する国というものがあった。
戻る場所を持って闘う人と、戻る場所を作るために闘う人とでは、発揮を求められる量や質が違う。
アラブの決意は一言で言うと「ユダヤ嫌い」の次元であって、イスラエル側は「アラブ嫌い」の次元にはなく、ユダヤがユダヤのままでいられる国、国を作らなくてはやっていけないこと、即ち、「戦争をする」ことを公然と宣言し、「戦争」ができるスタンスを許すようにするために、国という枠を熱烈に求めた。
「ユダヤ人の暴力」ではなく、「国としての戦争」となれば、それは「権利」という国際的なルールに乗ることになるのだ。
ベングリオンの文章を読んでいて、状況の善し悪しではなく、その状況の分析が時折ユダヤ人指導者間のものとして描写されるんだけれど、けっこう意見は指導者間でも違うのね。
5人も6人も違う意見を出している。しかし、その総括としてベングリオンがまとめるときには、「妥協」ではなく、むしろ積極的に、野心的な結論を出してて、かつまたそれを過半数以上の人が支持にまわる案に仕上がってるのね。
感情的なとこがバッサリ省かれ、戦略意図が明快な要望が仕上がっている。
アラブはこれが出来ない。
怒って返事をしなかったり、協定破りも下手に、恣意的にやってしまい、自ら混乱すらしてる。(ユダヤ側だってやってるのに、結果的にはまとまってる)
ひとつの言語体系すらあやうい当時の「イスラエル」を規模で40倍、共通語「アラブ語」を使うアラブ軍団が「負かせない」のは、その戦争のとらえ方の浅さゆえの「自損」であるように見せられる、のがイスラエルという国。
戦争中も「建国中」であって、「軍隊」を作っていく過程であって、戦争が終わってやっと「国を作るんだ」とその方向をやっと言えた、というのがユダヤ人の国、なのだ。
つまり、アラブは国と闘っていない。
「ユダヤ人組織」と対峙していたのだ。戦争後、認めるに至るんだけど。
ここ最近、プロイセン、イスラエルと「国」を作る人たちの過程を本で読んできた。
プロイセンは熱烈な意欲という次元のない国家生成の様子だった。
ドイツって国がうまれるのに役にたったけれど、「プロイセン」という民族はなく、「国」という
組織をよく認識できた。
一方、イスラエルはユダヤ組織がユダヤ然としていられるために作った国かと思ったけれど、どちらかといえば「国、というものが持つ権利」という手段を行使するために便宜上スタートをきったという印象を、ベングリオンの本からインスピレーションした。
肉体的に「ユダヤ人」がいるわけではない。
モンゴロイドとかアリアン人種でもなく、アフリカーンとかいう「人種」ってものでもない。
限定されない人種達が「ユダヤ人」という自覚を胸に、世界各国で似た性質を維持し、そのくせ一緒になると、ある傾向を共有してユダヤ的な結託を生み、理路整然と歩調をそろえられる。
ひるまずに、譲歩をせずに確実に半歩をすすめる。
印象としては
「ユダヤ人がいると、その周りの人が半歩引くしかない」ようにもっていかれる。
納得づくのふうでいて、生理的にかなり腹のたつ状態に「おさまりをおしつけられる」のだ。
ユダヤ人がそこにいると、世の中がグワンと動いても、ユダヤ人はなにも譲ってないところからのスタートになっているのだ。その過程が中東戦争のユダヤ側の会話でよくつかみとれる資質だ。
ユダヤを自称する人たちを唯一特定できる「特質」だと思う。
この「一歩も引かない」からこそ、ユダヤ人は発明をしちゃいかねない方向に向かうし、なにか達成できる頻度が高いのだ。「途中で投げ出す理由がわからない」のだ。
そういう特質だから。
感情的に英雄ぶる、とか高ぶる気持ち、っていうよりも、大リーグにいるイチローのように、自分の用意しておくものを怠りなく、地味に、地味に、つちかって、そこでだせる力を当り前のように生み出して、決して天才の奇跡によるのではなく、他の快楽に大した歓びも見いだせず、用意したものを希望した分、タンタンと入手して、はしゃぐこともなく、シンとしてる、というスタンス。
アラブ、というイギリスの「生んだ」各国は、王様やクーデタあがりの将校の国であって、ピュアな意味で「国」でもなかったのかな、という感じすら本からは読み取れる。
人工的な国境線のひとつひとつに「国」の格式、様式を与えているのであり、国、としてのオリジナリティ・アイデンティティを発散させる決め手がやや乏しく、自然な、自然発生的な魅了に足る個性に欠くっつーか、どうよ?王様って、感じてしまった。
つまり、アラブ側の認識が、この本からは推察しにくいので、じゃあ、と一念奮起して図書館に行くも、これがまたおそろしいほどに中東戦争についてのアラブ側からの記述の本がない!なんでだろ?
中東戦争でホントにアラブ人がイスラエルを排斥する理由ってなんだろ?というけっこうソボクな点を明確にしたかったのに、どうも体系づいた書籍がみつからない。
ユダヤ側の本は山のようにあるのに。
P.S
「ユダヤ人はなにも譲ってないところからのスタート」なるありようが、ここ数年のイスラエルのガザ侵攻にも重なります。パレスティナ人の生活インフラは学校も病院も破壊のかぎりが尽くされ、2024年8月現在、2万人の無罪の子供も含めた人が殺されている。
子どもや赤ん坊が戦闘員だったと言ってる https://t.co/0l2W1Sw7rR
— 町山智浩 (@TomoMachi) July 25, 2024
Rashida Tlaib holds 'War Criminal' sign as Israeli Prime Minister Benjamin Netanyahu addresses Congress. pic.twitter.com/q2GZTd4Ucf
— CSPAN (@cspan) July 24, 2024
ネタニヤフはしくじった。
これまでアメリカはイスラエルに譲歩を迫る国ではなく、背中越しに支持と兵站を担ってくれる国であったのに、彼の度重なる独走がイスラエル離れの一端を露呈させた。
露呈の時点で「しくじった」は成立した。ゆえの動揺。イスラエル国内でも彼への離叛は起こってるし、ヨルダン川西岸への無遠慮で独善な入植は度を超している。
看過するフェーズを抜きん出てしまった。
従来「味方側」だったとこまでが愛想をつかせてきた。ネタニヤフはやりすぎた。
今回の一件で「イスラエルは加害国」に過ぎないという認識は随分高まり、国際的な地位に急激な劣化を起こした。かの国の右翼的なそれ、では済まされないフェーズに入った。
ベングリオンならうまくやったのに。