(これは数年以上前に書かれたエッセイの再掲載です)
レイ・ブラッドベリという作家をご存じですか?
SFやらファンタジーやら、多種多様な作品をバイタリティいっぱいに発表する、年期のいった作家です。私は大好きです。
もう老人なのに、半ズボンでアメリカで血管切れそうなくらいにバンバン文句を言い放つ爽快さのある、イカした爺様だ。
年を重ねたらあんな爺様になれたら幸せだと思う
高校生のころ、私は小説、それもSFばっかり読んでいたころがあった。住んでいた町には映画館なんてなかったし、大きな本屋があればシアワセ~ってくらいの文化圏なので、本くらいたっぷりイカねばな、みたいな気持ちはあったような気がする。
んで、はじめは日本のSFが面白かったので、傑作選みたいなのを入手してはお~!とうなったものだったのですが、そのうち海外のSFってのも面白い感じがしてきたので、読み始めた。
日本のものも、海外のものも、SFというジャンルの小説においては質に激しい差というものがなく、フィフティ・フィフティの量加減だった。
私は「言葉使い」にやけに執着していることを自覚しはじめていた。
いくつかの本を読んでいけば、そのうちキャラクターの台詞にパターンがあるなあと、エラソーに定番を感じはじめ、だらだらと描かれている作品というものにもハナが効くようになってきて、「はっ!」とできる台詞ってものが貴重なこともわかってきた。
この「はっ」ってのもすごくて「はっ」!」と地味なのに「はっ!」ってのがありまして、前者はその作品に触れなくては見い出せなかった驚きの「はっ!」でありまして、早々滅多にない、主人公・ヒロインならではの台詞。後者は日常の私たちの生活のペースのままにあるのに、いわれてみるまで気付きもしなかった、意外は「はっ!」なのです。
その台詞使いで、「おっ!」ってのがやけに多い作家ってのにも気付きまして、それがブラッドベリ様だったのです。
作風もジャンルも作品ごとにけっこう差があって、ホントはファンタジー系が強いようなのですが、私はSFから入っていった読者なので、てっきりブラッドベリはSFの人だと思っていました。
はじめは「おっ」「おおっ」だったのですが、ついに「ガツン!」と明らかに「鉄板で殴られたようにショック!」を覚える作品に出会うことになったのです。
それは「歌おう!感電するほどのよろこびを」でした。
はじめて読んだのに「知ってる」と思ったのです。「あ、こんな作品を待っていたんだ」とするんと感じたのです。うれしかった。
主人公の台詞の柔らかさ、思いやりの言葉、しぐさ、物腰、全部「知って」いるものなのに、私たちの生活にはなかなかその豊かさが実感できないもの。
この作品に触れたとき、自分の中のサイズがグン!と広げられた感じがしました。
雑で派手で元気で刺激的な作品ばかりで突き進むテレビやマンガは、こうした作品をどこに置いていってしまったのか?とも思いました。
いい作品に触れるとそれまで読んできた作品が急に「ひとくくり」になって、「ブラッドベリとそれ以外」って扱いになってしまう。
ブラッドベリが特別な存在になる。
すきになった作家の、その作品に触れているとある感情やガッツ、雰囲気、気持ちを再生できる気持ちになる。
そうした作家は「ふくやまけいこ」先生や「遠藤淑子」先生にも共通する。
自分にそのとき一番欠けたもので、そのくせ自力でその欠けたものを埋め尽くせないときに、本をめくるとしんなりとそこに「待ってた感情」がすわってまっててくれる感じ。
つまり「他人ごと」にできなくなった感情がそこにある。
その感情は私のだ、っていいたくなる感情がある。
言葉にするのがひどくおっくうになるもので、それでも人に伝えたい時には、作品を介して連絡するのが一番すわりのいい感情が、優れた作家には共通の魅力。
さきほどからこのブラッドベリの作品そのものに言及してないのは作品そのものの概要やあらすじを語ることで、わたしが自分の表現の非力さを感じてしまうのをこわがっているから。
大好きすぎて、壊したり、勘違いするのもさせるのも嫌!な大好きさ加減。それでもよりにもよってエッセイのここにタイトルをドーンといくからには訳ありなのよ。
物語の大筋は読んでみてください。お芝居をみたことある人は「キャラメルボックス」という劇団で、そっくりなお芝居を見たことがあるでしょう。
それを是非小説で読んでみてくださいね










