仏教の周辺散策 | アメブロなpandaheavenブログ

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南氏がどうしても苦手で馴染めない言葉が「プラス思考」だ。「ポジティブ」「前向き」といった言葉も、我が物顔に言われると辟易してしまうという。

 

「プラス」でも「マイナス」でもない「ゼロ」の思考。「ポジティブ」でも「ネガティブ」でもない「ニュートラル」な在り方。「前向き」でも「後ろ向き」でもなく、そこに「止まる」こと。定期的にこれらが必要というのが南氏の考え方だ。

 

ゼロ思考は、何も考えないことではない。損得でものを見ないこと。自分の見たいものを見ようとしないこと。そのものを「見る」のではなく、そのものが「見える」ようにすることだ。その先を行けば、物事を自分への問いかけと受け止めて、安易に答えを出さず、そこにとどまることである禅門で言う「非思量」の境地がある。

 

「ポジティブ」でも「ネガティブ」でもなく「ニュートラル」であるには、「いい加減」にしておけばいい。手を抜けということではない。火加減や水加減が難しいように、加減には注意深さと手間が要る。結論を急がず、様子を見る、時期を待つことも立派な加減の策なのだ。

 

「前向き」も「後ろ向き」も通用しないときは、止まる以外にない。止まらない限り見えない風景があり、それは足元であり、現在地。行く先を選ぶには、止まるしかないということだ。

南先生の本を網羅してるとは言えない🐼ですが、この概略部分は師のどの著作にも通底して揺るがないいいまとめです。ここまでのフレーズに心当たりのある方は読書くださるといいと思いますよ。

 

若い方は、落ち込んでいるようにも、後悔しているようにも見えなかった。彼は反省していたのである。その「反省」に対して、中年は、とにかく「次」に向かって、プラスでポジで、前に出ろとまくし立てるのだ。

年配者が闇雲に、ワンイシューの一点突破で「言いくるめるフレーズ」だけを徴用して、表っつらでケムに巻くからヤングは年配者を胡散臭く思うんでしょうね。ひどいもんですわ。

私は別に、「ネガティブ」が良いとも、「マイナス思考」が大事だとも、「後ろ向き」が必要だとも思わぬが、他人の「反省」を無にしてまで、何故に人が「プラス」関係にこうも自信満々なのか、理由がわからない。

その「プラス」とは、いったい何を意味しているのか。

まさに然り。卑怯な手口に翻弄させやすくしちゃう人っているものです。

もしくはエセ知識人ぶって、核心も経ずに「言いくるめる」道具に仕立て上げた「安普請な論破」に酔えるほどには阿呆が、これを多用しそう。

師の説くように、「自信満々」になれる因子はここには見当たらない。

 

大枠部分で「だいたい正しそうな言い繕い」をここで南先生は無意味であると喝破されてますが、威張るためではなく、そんなのまるきし虚無だからですよね。

 

本当に生きて過ごすときに、有益で揺るぎないものであるのならば、もっと安逸な言葉で、誰もにうなづけ、生きて過ごすのに「使いやすさ」が教えの中にこもってるはずです。

 

それっくらいの汎用性もない、ご年配者の「お説教の道具」程度のロジックでは、ヤングは長持ちしないことを見透かすと思うけどね。

陳腐だもの。

 

 

ブッダボッド。

「小理屈はいいから、経緯もすっ飛ばして、こっちが聞きたいことだけに、それっぽい返事くれないかなあ・・」てんなら、これもありでしょうね。

 

長大な教示の何処かには、こっちが探って知りたいものが内在してそうなのは、うっすら感じてても、「そこにたどり着く」までの散策や修練は「時間の無駄」くらいな人は大勢でしょう。

 

悩みに応えれちゃう、のが、 🐼には「お節介な。雑なことしやがって」でしかないので、「応えないでよ」って言いたい方ですが、これが魅力的って人には、いい機会なんで使ってみてください。どんなもんだったか、後で教えてください。