昔からね、そうね、8ミリ映画で「自分でテーマを作り込める」てなった時からあたりかな。
ずっとね「みんな一斉に間違ってる」はあるって、腹にあるんです。
「みんな、そうしてるよ」
「なんでみんなの反対やりたがるの?」
「悪目立ちしてて気持ちいいわけ?」
と🐼の生来の天邪鬼(あまのじゃく)気質は、母の性格由来部分がずいぶん広いんだなって、今の介護中にたくさんみえてきましたが、母のせいではないですね。
🐼が好き好んでそうでありたい、であったのです。
「みんなそうしてる」なる同調バイアスは、三河のような田舎ではどうしても仲間意識が連帯して強くあろうとする気風にも馴染み、「あたりまえ」のつらがまえをしてきます。
ずっと、馴染めませんし、いまだにその土壌と精神性は嫌いです。救われてる面もありますけど、おかしくもなります。
同調バイアス下では「拮抗しとく」だけで、毎日・日々、「ずっと逆らってる」をキープもしますが、それなしにはくじけもします。なけなしの反抗です。一人プロテスタントです。
ですので、上述の話に戻しますが、作品の根っこに「みんなの方が一斉に間違ってる」も多々あり、ってみなすテーマを見つけた時は、何か救われた心地がありました。
昨今、こうした「従来『大丈夫とみなしてた』」規範達のうちに、実はただ横暴で横柄で尊大に過ぎなかった、とまるごとごっそり覆る時代になりましたんで、🐼は息がわずかながらしやすくなりました。
「みんながそうしてる」は気持ち悪いんです。
ずっと、ダメでした。
みんなが一斉に間違ってる、のも嫌いでした。
実は被害を日々被ってる、をまんぜんと許す空気も土壌も嫌いでした。
好きな人たちが、それを口にし、その規範で過ごすのに馴染めるのも嫌でした。
嫌なものは、嫌で通せたい人にありたかったんです。
ま、面倒ですよね、たがいに。
でも続けるんでしょうね。間違ってるの、みんなのほうなんで、って、やっぱ、あるもん。
多数決じゃない方に、答えが埋蔵してることなんてふんだんにあるもの。