「強くて丈夫」を若者が標榜するのはいいと思う。
若いうちに鍛えておくものがあれば、後年の憂いのいくつかははらえるし、基礎部分が堅牢なら鍛え直しも軽微で復調を適えるでしょう。
されど、その念に没頭したり、固執したり、当たり前と思い込むのは実によろしくない。
「強くて丈夫」を平準とみなすと、「強くて丈夫でない」期間が、苦痛に転嫁する。
強くて丈夫じゃないから、うまくいかなかったんだ、と思い込みがちになるし、あの時強かったらなぁ・・・あの時丈夫だったらなぁ・・・と忸怩(じくじ)たる気持ちに負け負けおおしてしまう事すらある。
常々高みにあろうとしておく気概は買うけれど、そこに達してないうちを「間に合ってない」とみなすようになるし、なんとなれば他の人にも似た目線を渡すようになり、手抜いてるだの、もっとできるだのと、言いがかりに近いような観念に取り憑かれることもある。
強くて丈夫ないことを詰(なじ)ってくる人もいる。
どうしてどうなの?もっとできるよね?そこは我慢できないの?・・・
これがすこぶるきつい。
かつて🐼の近くでこれをいう人がいたが、縁がないなと思った。
後年、「強くて丈夫」であろうとして、壊れるものがちゃんとあったし、その甲斐はなかった。
「しなけりゃよかった」でしかなかった。
若いうちに、鍛錬のひとつくらいの気概でなら、これを許す、ってのが適切な配慮だと思いますね。ずっと、年配になってまで「強くて丈夫」に憧れてるのは、不自然だし、無理が祟ります。
ましてや、人にそれを言うのは、人によりますけれど・・ある意味暴力や恫喝になりかねんです。
なので、「強くて丈夫でなくとも良い」とは言いたい🐼でした。
そんくらいなら、存続が永らく叶いそうです。