現代人の「日常を続けなくちゃ」なる異常なほどの執着と、一旦それだしたら戻せなくなりそうという畏怖とが、病的なのを認知できなくなってるんじゃ?って時々思います。
このテーマにはもう一筆うるさくしたくなったんで、蛇足ながら添えます。
正常化バイアスの薄暗さっていいますか、後ろめたさみたいな性根のまんまで、「これで普通・・・これで正常・・・私は普通・・・」って病んでますよ。
毎日が「なにも起きずにあってくれてありがたい」を至高にする「考え方」にも毒が潜んでるってことです。
いろいろあるのが「生きる」ってことであって、平坦さや波風の立たなさは、安寧(あんねい)を覚えますけれど、ある意味異常でもあるんです。
常時変容し、変遷があり、移ろっていくせいで、気持ちに置き場がない・・・
それは自然なことで、避けることというより、受け入れとくことの方が先です。
これをかなわせない人が苦しみだすんです。
禍福は糾(あざな)える縄の如し、は至言でして、いいも悪いも、螺旋状に入り組んでる。
そこはもういいとか悪いとかではなく、そーゆーもんだ、でおくしかない。
評価して事態が変わるならそれもいいでしょうが、多分それはできません。
表題にもある「大丈夫な自分でい続けなくちゃ」まですぐさま行きついちゃうくらい、現代の生活の厚みは薄くてもろいため、日常的に劣化も疲労も蓄積しています。
とっくにくたびれてる状態になってるのが、平準化してるんであり、もうすでに幸せじゃない、を認める勇気が損なわれてます。
動き出すときは、今の自分の状態を正確に掴まないといけないんです。
出だしのつまづきは、以後の進捗の具合を分からなくさせちゃうから。
どんだけ進めて、どんだけ滞っているかの距離を目測しなくちゃ立ち位置が不明になります。
大丈夫でいなくては・・・を過剰に自らに律するは、それなりに自身にも傷を重ねています。
その不自然は、容赦無く心をいさめ続けます。
自然さに振る舞えてないことが、とっくに不幸なんですから。
許すこと、ってのは諦めることにすごく近い。