(これは数年以上前に書かれたエッセイの再掲載です)
最初は、なにかの、罰なのかな、とか思った。
こんなに息苦しく、こんなに八方ふさがりな感情にいたってしまうのは、きっと罰なんだろうな、とか思った。
日々、砂利を噛まされて「お味はいかが?」と丁寧にお伺いされているかのように、「全く気にいらない」とも言えず、ただ無感情に向かいそうで心臓が高鳴るのだ。
夜、車で徘徊していると、小中学生の塾がコーコーと光っていた。
みんな勉強してるんだなぁ。どうしてみんな同じ土俵にあげられるのか?って点については不問なんだろうなぁ。つらいだろうな、と思う。
無気力、にさせられてる感じがする。感じ、がすでに本当であって、気のせいとか自意識過剰!とかいう他人行儀な解説ならいらない。この当たる相手を特定させない感情のハケ口はどこだろう?
ちなみに、私はいま、悶々ともしてないし、怒ってもいない。思索なのだ。
これはこの世間に圧倒的にはびこる感情なのに、誰もがきちんとは把握しないですましてるものへの対面を期待しての思索だ。
この「一斉」の「無気力」な感じってなんだろう。
罰、じゃないようだ。神様のすることにしてはチープすぎる。
擬人的すぎる。
誰かにどうの、ってものじゃないのもわかってる。
かといって、「気晴らし」がしたいわけではない。むしろ、「気晴らし」なんてしたくない、という感情の方が正直だ。
と、いって、どこか誰かに「うらやましいな」って人がいるでもない。
自分の中に覚えてる、ある「思い当たる」感情ってのがあってさ、そこまでは気持ちってものが持っていける、って人間は知ってるんだよな。
でさ、日々、そこには到達しないの。日常生活では。
人は、その内に知ってる感情があるとき、時々使ってあげたくなる。
日を当ててあげたくなる、っていうのかな。
そういうのって、「悶々」とか「怒り」っていうのと違うじゃない?
ホントに「日にあててあげたくて」露出させる感情ってものがある。
ちょっと照らしてふー、って一息つけたら、スッとしまいこんでおいてもうおさまる感情、というのがある。
最近、感じる「閉息感」はこの「感情を日にあてる」ことがうまくいかなくなってるってことだけなのかな。だから厳密には「怒ってる」わけでも「悲しんでる」わけでもなく、ましてや「困ってる」とも違う。
くすんでいる、のかな。
くり返すけど、わたしの精神状態そのものはいたって健全なので、心配はいりません。
思索です。考え方を楽しんでおるのです。(注:執筆当時は、です)」
この「閉息感」ってホンモノかな?
なんかハリボテくさくみえるんだよな。
なんかうさんくさいんだよ。しきりにあやしい感じなんだよ。
「心底困ってる」ってのとは、やけに距離のある感じがするんだ。
その不細工な距離感のせいで、今の時代の「閉息感」がふわふわ位置してるんだ。