寄り添えもしないくせに寄り添うって口にした罪は深い | アメブロなpandaheavenブログ

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最近漫画の先生始めました。
好評です☆

写真を撮ったり映画を見たり。でもやっぱり普通が一番!
みんなも無理しないでね!

私はその後、阪神淡路大震災、新潟県中越地震、東日本大震災、熊本地震……。地震だけではない、豪雨、台風、火山噴火、酷暑など、自然災害とそれへの対応を取材し続けてきた。近年、自然災害は人知を超え、常軌を逸するレベルになりつつある。

どれほどの命が奪われたか。被災者にはなんの罪もない。しかし、政府の対応は、時間も予算も大がかりで法改正にも時間がかかるとあって、過去の教訓をその後に生かすことをせず、根本的な防災対策に取り組んでこなかった。挙げ句には「未曾有の災害だった」などとその度に言い訳をして逃げてきた。度重なる自然災害の犠牲や被害は「政治の人災」と言えるのではないか。

よくぞ書いてくださった。

起こった事は仕方ないが、起きた後のことは須く「態度価値」であり、その回復と修繕への専念に国家が全力で来てくれる・・と信じれてこその安泰。

二言目には「安心安全」を標榜だけで済ますようになって、能登の震災は最初の被災から5ヶ月後の再度の地震で「かろうじて保っていた」屋外施設も崩壊するまで延々回復をなさなかった。

 

かような体たらくっぷりでは、国民は政府も国も信じなくなる「空気」をきちんと醸成するから、公的なものへの協力はしぶりだすし、タンス預金は増えるし、企業の内部留保は進むので、国が今ほざいている「投資信託」なんぞは機能するはずもない。

 

とどのつまり「信じさせない」くらいの態度を取っといて、「言うことは聞け」を現政権はやってるので総スカンなのだ。

 

今年、元日には能登半島地震が発生した。官邸の初動は明らかに遅かった

そう、酷く鈍い。歓声がひどく劣っている。

初動の遅れを挽回するかのように、岸田政権は中央指導で「やれることは何でもやる」と息巻いたが、「中央で旗を振る」こと自体、じつは過去の教訓を生かしていない。重要なのは、現場主義に徹することなのだ。

 

阪神淡路大震災では、右往左往していた官邸に、危機管理のエキスパートたる後藤田正晴元副首相が押しかけ、自社さ政権の村山富市首相に進言し、現地にベテラン政治家を派遣することになる。村山首相が「すべて現地で判断してくれ。現地が欲しいものは最優先で何でも叶える。法律違反というなら法律を変える。自分が責任をすべて取る」と現場主義に徹したからこそ、復旧へ動き出した。それをなぜ今回も実践しないのか。

 

また能登半島地震で、岸田政権は省庁の官僚らを送り込み、首相は「現地にミニ霞が関を作る」と豪語した。これも間違っている。

 

確かに実務は官僚がやるのだが、官僚や公務員は法律を犯したり、既成の平等概念を壊してまで物事を進められない。だが、災害時に法律や既成の平等は壁になるのだ。東日本大震災では法律によって使いたいところに公金を使えなかった。また、自治体は、避難所で食料や毛布の数が被災者の人数と同じに揃うまで配れなかった。寒さを少しでもしのぎ腹を満たせばいいものを、特定の場所だけ配ると不平等になるというのが理由だった。

 

つまり官僚を送りこんでミニ霞が関を作ってもしょうがないのだ。「一番困っている人たちを優先しろ。既成の平等などに縛られるな」と政治決断できる政治家、いわばもう一つの首相、もう一つの政府を現地に置かなければならないのだ。

 

このように過去の自然災害の教訓を生かせず、今年の能登半島地震でも繰り返した失政が多々あった。

官僚発想で「毛布が住民分の人数揃うまでは不公平になるので配らなかった」などという実態としての不貞が実際に起きたし、現場でもそこに声が上がってもいた。

改善する勇気も、救いきるための柔軟さもない人を現場に送った愚は「責任者に責を取らせる」で半歩でも心情的にも進めるが、それも負わない。総じて卑怯者たちなのだ

政治・行政が常套句のように使う「寄り添う」という言葉がある。だが彼らは、果たして本当の意味が分かっているのだろうか。

 

13年前の東日本大震災。復興庁によると、今年3月時点に至っても、避難者は何と22900人もいる。全国に散っている。福島や宮城の太平洋側の故郷に戻りたいが原発問題や町の産業や経済が不安でいまなお将来を見通せない。いずれ帰るのか、いやこのまま避難地を永住の地にするのか、いまも選択を自らに課している人たちがたくさんいる。

100歩譲って、「寄り添った」挙句のいまがそうなら、寄り添ったって無駄な連中が政(まつりごと)の中枢を牛耳ってるに過ぎない。さっさと席をあけるべきでしょう。被害しか増えないわ。

 

被災者はあの日を忘れない。心の中でも、暮らしにおいても、時は止まっているとも言えるのだ。「寄り添う」というのは、そういう被災者が自らの意思で前を向いて進み出すそのときまで、インフラや経済や仕事やあらゆる復興政策をずっと継続していくことではないのか。軽々しく「寄り添う」などと口にする政治・行政はその覚悟を持っているのか。

口当たりがいいだけで、国民には耳障りな「寄り添う」になってしまってる。

戯言(ざれごと)ならどっかの孤島でやってくれ。なまじ信じて苦しむ時間を増やすだけなら、貴様らは加虐者にすぎない。席を空けよ。

「宣(のたま)ったことを為せなかった」は、国会議員先生に付いては有罪って律法が要るんじゃないかな?現行の総理はことさらその傾向が顕著にひどい

 

期待だけ養生し、成果は果たさぬのだから、退席願いたい。