昨今、声に上がるのが「ネット時代は好きなものが向こうのほうから紹介され、新しいものの発見や開拓には機会損失しがちで、昔からある書店やメディアのショップなどにある偶然の出会いから、自身を広げる機会を得る回数が減ってる」なるもの。たしかにそうですね。
ネット経由で入ってくる情報は確かにその介在部分に、その使用者の趣向や峻別に、分析され重宝しがちな傾向を大枠に計り、強化する傾向が利便性に富むのは本当です。すごく便利になりましたし、広い範疇にそれを見知る機会も得ました。
それが旧来のショップや書店に「生活上の環境」から出向ける機会を損失させてでも、済ませられ得るほどの利便が勝った訳でしょう。
得の方が大きいパイに、自身のリソースを最大限にしやすい取捨選択をしたのです。
新聞や読書に見る、「自分が預かり知らない」とこからの投げ込みや、イレギュラーに「新しい息吹を見つけられた」は、現代のデイタルネイティブには「新聞や本を買う」に懐が間に合わぬわけです。
そんな中でも最前最大な情報入手ソースであり、身入りがケチられる側に生まれ落ちてる世代は、自己防衛も込みで当然ネットの利便に走り、自然と店舗が勝ったときを知らぬ世代にもなりました。
今の高齢の方々が「若いうちに本屋で買えなかった」を叶えさせる年齢とかろうじてでも身入りに自由が許される時代になれて、ようやく得た幸いの時間を、目に見えて「店舗が減っていく」は地獄の景色そのものでしょう。
ようやく、世界は「自分のターン」に見えさしたときに、店の方が姿を消すんですから。
今更ネット世界に足を入れるにも「ファンクションだらけ」のギミックにはさぞかし「脳内の切り替え」が強いられますし、「いざという時に限って、使い方がわからん」という辱めも受けるわけです。酷いものです。
かつての盛況を得た「写真屋」「ボーリング場」「新聞」「レンタルビデオ屋」「レコード屋」は消えてる最中だったり、消えきったりしてます。時代の潮流ですが、本当に「そこでしかなかったもの」は消え去ってしまいました。。再開は適いません。
今や百貨店も街の商店街も、地元のスーパーすら存続が適わなくなり、次第にバスの路線ごと運行が消え、電車は路線ごと損なわれ、住う場所自体の懸念が顕在化していくのです。
従来良かったもの、は記憶の片隅に早く「置き直し」しなければ、新しいものが身近に用意する機会損失を起こしますし、遅れるごとに他所にリソースを持っていかれもするでしょう。
なにもかもが急かされ、くたびれガチになっていくでしょう。
街の本屋さん・・・が贅沢だったのです。「当たり前」の基準が移ろっていく時世なのです。