人間の尊厳というもの | アメブロなpandaheavenブログ

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最近漫画の先生始めました。
好評です☆

写真を撮ったり映画を見たり。でもやっぱり普通が一番!
みんなも無理しないでね!

(これは数年以上前に書かれたエッセイの再掲載です)

 

昔、授業で習ってて社会科などで「人権」とか言われた日には「なんのことやら」とまったく理解できなかった。

英語で「ヒューマンライツ」でしたっけ?

ま、なんせ理系なんでどーもなんだかね。

外国人なら分かるのかな、ともボンヤリ思った。「人権」、フム、やはり今でもどーもなんだかしっくりこない。
で、今日は「尊厳」については少し、ほんの少し「あ」って思えたので、がんばって書いてみる。どーかな、いや、書いてみる。やってみる。

映画にせよ、まんがにせよ、お芝居にせよ、物語はいつもキャラクターってものがあって、そこに描かれるリアクションのつもりつもったものが「物語」になる。

高校生の頃にね、美術の時間に好きな絵を書いていいと言われたことがあって、「F-14がビルの合間を音速で飛ぶ」という絵を描いたことがあった。
ビルの窓はことごとく割れて、破片が飛び散る。そこには人物は描かれていない。

高校生なりのカタルシスが発揮された絵を見て美術の講師、通称「マフィア」先生は「このビルにいる人たちはどうなってるんだ?」と聞いてきたのである。

え?って思った。先生なにいってるんだろ?とその意味が分からなかった。

風景があって、そこに人がいない絵。
飛行機は飛んでいて、窓が割れていて、そこに動いているものがあるのに、人がまったくいない町を、私は描いていたのだ。
 


さて、このごろのドラマやアニメ、映画を見てて、なんというか、しんどいのであります。
なーんか足りないなぁ、配慮が・・・って感じるのだ。
描きっぱなし、っていうのでしょうか、売れ線の作品に世界は満ちあふれてますなあ。
がっぽりはもーからないかもしんないけれど、クリエータたちが食べていける作品が邦洋問わず世間に出回っている。

それは人にいい作品、という前に、先にくるのはなんだか「食い扶持」くささがハナにつくのだ。
作りっぱなしの感じがするのだ。

そうした作品世界にあって、キャラクターたちを見やるのだ。その時、息づくっていうのかな、そこで生きる、ってことにされたキャラクターたちは、「人」としてきちんと描かれているだろうか、って見やってしまうのだ。

大きなお世話よね。面白くてなにが悪い?なにいってんの?ながや、ってなもんよね。

で、そこまで理解できてこなかった言葉、「尊厳」ってなんだろう?ってなりました。
「尊厳」・・・もうすでに漢字がなんだかちょっと難し気。
立派すぎてどーもなんだかね、って感じ。

人、がただ凛(リン)として、誰の邪魔もせず、誰の邪魔にもならず、ものおじなく、
その人そのもので、ただ、あることをよしとして、スンと立っている、そんな風景が私には「尊厳」の風景だ。

実際のその人がどんな人で、どんなことをやってきて、今、どんな人か、ってのが世間でのその人の「評価」になるんだけれど、「尊厳」って話になると、そーした「人からの評価」の外のものになると感じます。

誰彼の評価、にまったく重きがなく、その人個人、そう、個人がただ「凛として」いる、

そう、いられる気持ちがあるかどうか?が「尊厳」な気がする。

その人が「どんな目にあってるか?」「虐待・争いの渦中にあるか」といった表っつらの
状態ではなく、芯の方で「それでもわたしはわたし」と、ただ自分にじっくり自信を
保てているかどうか。本当の自信はあまり「まわりの理由」に揺らがない。揺らぎようがない。

それを、作品世界のキャラクターに探すのは愚かだろうか。
たしかにそれを感じる時というのがあって、そうした作品は売れる、売れないに関わらず人にとって「他人事でない」ところにスウッて入る。それは「好きなもの」以上に「要るもの」になる。

洋画、ことさらハリウッドの映画がそうなんだけれど、ただただ派手なエピソードをてんこもりにしてくるものを「ハイ!豪華にしたからたっぷり楽しめ!貴様ら!」みたいな押し付けがましくて、なおかつ作り手が思ってる程面白くもないものを、大量に注ぎ込まれると、ホントにいやんなっちゃう。

その作品が嫌い、でおさまればいいけれど、やもすると「映画は嫌い」ってなりかねない。かつて退屈なお芝居ってもののせいで、演劇がすっかりつまらなかった時があったように、つまらない作品の集合は害にしかならないのだ。

そうした中、物語が「尊厳」のある人間を描いてくれていると、エピソードの派手さはあまり重要ではないんですね、とストンと腑に落ちる作品ってのもハッキリしてくる。
「ヨコハマ買い出し紀行」なんて一見地味そうなエピソードに満ちているけれど、そこには「尊厳」がある。遠藤淑子先生の一連の作品も、人の尊厳に満ちている。
ホッとする。正気に戻る。心が座る感じがする。

派手ににぎやかしな作品で世間が満ちる時、私は尊厳のあるところを探す。
つまりは、自分の枠の外に、尊厳を信じられるものを期待したいのである。
そしてそれはあちらこちらにあるし、探す苦労にそぐう大きさや素敵さを持っている。

尊厳について、早々に「あきらめたり」「探すのをやめる」のもありだな、とも思う。

けっこうシンドい作業でもある。心が淀むのをどれだけこらえるのか?ってことだけなんだろうけれど、それもありだ。

 


私のF14の絵について、美術の先生がいった言葉はこの「尊厳」があるの?ないの?という質問だったような気がしてるのだ。

描くのは、やはり、人の感情なんだし、その絵に尊厳をお前は描くことにしたの?それとも今回は忌避したの?って見すかされたのだ。



絵のテクニックとか、パースとか、描写力、って次元ではなくね、うまい、下手でもなくってね、
「お前はこの絵に『込めるの?込めないの?』」って聞かれた気がする。

高校生のわたしは、とてもこの絵をうまく描いたと思うが、大きく欠損してるものをあとあとじくじくたる思いで見返すのだ。

私は映像製作を生業(なりわい)としてたことがあって、そのときにも「商業としての撮影」にほとほと疲れ切った記憶もある。「なにか作っていれば幸せ」ってもんではないのだ。