「裁判官、私の声が届いているでしょうか」 | アメブロなpandaheavenブログ

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最近漫画の先生始めました。
好評です☆

写真を撮ったり映画を見たり。でもやっぱり普通が一番!
みんなも無理しないでね!

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「子どもを捨てられ、子どもが生まれない手術もされ、差別に苦しんでも辛抱するしかなかった人生を、どうか理解してください」。手話での訴えを、手話通訳者が声にする。

時折、隣の代理人弁護士が紙芝居のようにめくる16枚のイラストに目を向けた。子どもの頃に手話を禁止され、口の動きを読むことを強いられて育った。文章を読むのが苦手になり、弁護団や支援者が過去の出来事の場面を絵に描き、メモ代わりにした。

翌日、帰宅すると喜美子さんの姿がない。数日後に戻ると泣き続けた。「赤ちゃん」「捨てた」。理由は「分からない」。下腹部に大きな傷があった。

 2人の母親が相談して手術を決め、説明もなく受けさせたと判明した。詳細が分からず、2人は中絶手術だと考えた。子どもができず、つらく、寂しかった。

人を人扱いしない国だった。結構大きくなってから、詳細を知ったとき、なんという冷酷かと唸った。法治国家で「法」がこれを後押しし、世相のうちにバイアスが被害者に取り返しのつかない加虐を許し、慣例化し、人生を・命を破壊した。

 

(旧)優生保護法・・・このネーミングの文字の並びと、底に流れる優生指向のニュアンス。虐げられた側が「声が届いているでしょうか」と表明する下地を思うと、胸が詰まる。

 

生涯を通して貫かれることになった排斥の法。

時効を盾に「やむなし」という「誰かの存在に我慢で済ませる」という強行を是認せよと、一層の加虐で応えるやり口。

 

この頃の政治は政(まつりごと)の側の人も、それを非難する人にも、互いに不幸に思うのは「声は出してる」とする側に「聞く耳を持たぬ」側とがあり、互いに疎通の悪さという防壁を設けた、人力の拒絶。

 

この拒絶が、人が・人に・なにかを届かなくさせる。それを適えてしまえる。

 

その拒絶の壁を打ち壊しにかかるのが、拒絶された側のリソースやモチベーションに委ねられてる構図と、あわよくば「なかったことで済ませたい」側がせめぎあう。

 

仮に、だ。

この場を「なかったことで済ます」に振れたとき、この場が済んでも日本人は「そういう判断をする国体」なのだと我らが知った際に、「どの心を強くしたか?」なるものが、社会不安に加算され、遠巻きに「この国ってのは、そういうことをしてくるし、できる」としたら、「信を置く」は成り立たないだろうな。

「今後もそうしてくるんでしょう?」

「どうせ有耶無耶で済ませられる体を取るんでしょう?」

「なに言ったって、やったって、無駄骨にさせるんでしょう?」

その是認ですよ。

 

「口先でてらいの良いことばっかり言い放っておけば、それで済めば最善」な国にしたと済ましたら、それをそうと済ませた世代の罪は、後年の憂いになるに違いない。

 

「声が届いてるでしょうか」

 

これ一つが適わなかった人生。わたしたちに、この言葉はこだましてませんか?

私達の声は、出してるのに、届いてないな、ってなってやいませんか?

いま、世界も日本もこの「届かなさ」の渦中そのものじゃないですか?