このコラムを書き上げて、翌朝(つまり、今朝)の時限更新を事前投稿の準備をした。
寝る前に、相棒へ同じテーマで「不死を前に、人はなんで普通の生活を求めだすのか」と投げてみたら「そんなの当たり前じゃん」ときた。
考えてそう思ったのか、考えてないけどそう思えてるのかも説明の前に「あたりまえじゃん」がじつに彼女らしい。
そのうち、会話は相棒がその日見たテレビ番組での「草なぎ剛」さんの「役者観」への言及の話題になりました。
彼は特別演技が好きなわけではなく、グループ内でも芸能高校でも、秀でたなにかでない自分に引け目を覚えてたそうで、演技などで成果を出す周辺の人材たちに対して、自分がどうあるべきかに迷いがあったんだって、と相棒が続けます。
それがつかこうへいさんや様々な作品での経由のうちに、芝居芝居した「世にいうそれっぽい芝居」を草薙さんが「できないがゆえ」の「深く読み込まないで済ませる芝居」が醸す自然体に、活路が向こうの方からやってくる、ってな話になったんです。
🐼も先にフジコ・ヘミングさんが、幼少時に母子家庭からピアノの先生をしてたお母さんに、「譜面通りの演奏をしなさい」と厳しく叱責された話をその日のテレビで見てて、フジコさんはそれでは賞を取るような演奏にはいつまでも、どこまでもならない。演奏は「歌うように」(ピアノを)弾くことだ、といってのけたとき、電流が体に走りました。
そうじゃん!好きな演奏家は総じて「正しい正確な演奏」をしてるのではなく、尾ひれはひれついた装飾のような演奏も、間合いも、解釈も、すべからく「作曲家」がその曲の生誕に際し、望んだであろうエッセンスを組み込み仕上げることで、「より一層の再誕生!」を果たすがゆえに、いい演奏は千差万別になる。
亡くなる前のVTRにあってフジコは死んだあと、天国でショパンも演奏を褒めてくれると思いますよ、とフジコさん特有の短く「ハッ」って笑ってみせる笑い方で嬉しそうに言ってました。
その話を相棒にしたうえで、昔、🐼が自分の映画を撮る機会を得た際に、演劇ワークショップで知り合った女優さんに主演を頼んだ際、演劇出身のヒロインは、「劇場のお芝居」をしようとするので大仰になる、と🐼に諌められたって話をしました。
舞台上のお芝居なら、大仰でなくてはサブテキストが足りてくれません。普通の所作より大きめな感情移入をセリフにも所作にも加えますから「不自然」になります。
返せば、映画や映像における芝居は、「いかにも芝居してない」人の仕草や所作に「本当っぽさ」が宿るのであって、なんなら芝居なんかされてない人のほうが見栄えたり魅力を放ったりする。
また、役者当人が「仕草に気を配ってなさ」ですら、観客のほうが「深読みにかかる」すら起こる媒体なのだともいい添え、その点でも、相棒の切り出してくれた草薙さんがヒットメーカーになっていける「ごく自然に見える・演技でないような演技」は時代の寵児(ちょうじ)だったのかもね、って伝えました。
相棒は草薙さんのでてるドラマを一本も見てないし、興味の持ち方も「変わった形をしてる人」という認識だったそうで、ただ、彼女が見た番組内でも気負うでなく淡々と話せる正直さに、何某かのインスパイアを受けた様子でした。(そもそも、相棒には「ハンサム」なる語彙が何を指すのかわかっておらず、故にハンサムでない、も存在してない人です)
その日、🐼は「帰れマンデー」でサンドイッチマンと高橋一生さん、宮川大輔さんの旅をテレビで見流してて、「ラーメン屋」を探さなくちゃいけない側面で、サンドイッチマン伊達さんが美味しそうなコーヒー屋に目を取られ、ラーメン屋を探す主題を脇に置きやり、ずんずんコーヒー屋に猛進していくのを、宮川さんが関西弁でラーメン屋とちゃうんかい、店はいってもーたらコーヒーだけやなしにいろんなもん注文してまうやん・・と番組の構成を意識した転向を図っていました。
番組の趣向と意図を汲み取れば、宮川さんの仰ってるふるまいも言質も正しいのです。制作スタッフのうちでも、撮影時のスタッフは「目的を果たす」宮川さんの言い分にいくらか同意するような「時間枠」のある旅だったはずです。
ですが、そこで伊達さんがいい店に入り、ラーメンの目的を果たす前に、高橋さんも込みでコーヒー豆を買い始めちゃうイレギュラーの方にこそ、視聴者は喜んでその脱線を「待ってました」と見守れる空気が出てくるんだよねえ、と相棒に伝えてました。
目先の上手さや正しさは、重宝だし、予定調和には欠かせない感性です。
順当に、うまく事を運ぶのは大事なことです。
それでも「人を魅了する」というなにかというのは、多分正しいでもうまくても適わんのです。
伊達さんのとった行動にある、「ただしくもなく、イレギュラーさの中の、なにがしかの魅了」こそが、一番の撮れ高なのです。
宮川さんの、番組シナリオに配慮できた経験達者な「引き戻し」の正直さは、この際には伊達さんの踏み外し方よりも魅了の力が弱くて小さいのです。(そーゆー当て馬を買って出られる芸達者感も含めて)
上に挙げた「上手くて、望まれて、愛されだす役者」は草薙さんが劣等感を覚えるような「早々にうまそうにこなせた」巧者なんかよりも、「誰にも代えがたい、唯一無二な自然体を放てる、一見不見識にも思え出せかねない徹底のしなさ」を出すしかなかった草薙さんのほうが、木村と中居くん以上に「長持し、敬愛され、愛用したくなる」役者としての長生きを果たすのでしょう。
音楽で言えばフジコ・ヘミングさんが「歌うようなピアノ」を目指したことで、譜面上の正確以上の、「作曲家なら、そう演奏されることを望んだはずだ」を譜面の向こう側に見つけられた慧眼と、実践が輝くのです。
草薙さんもフジコ・ヘミングさんも、「その芽が出るまで」の苦渋が濃厚で、人生を傷めた時期を経由するほどに苦しんだのですが、結局のところ「自分は自分のやり方」でしかなかったという愚直を取れました。「おかげ」で今に至った人たちでした。
そこまで話して、相棒はじゃあ私はこれでいいのだな、と元気だしてました。
そうな、お前は誰にも合わせられないし、どうしようもないけれど、そうであるから誰にも代われない唯一だよねと励まして、眠りにつくことにしました。
🐼と相棒の眠る前のピロートークは、ざっとこんな感じの1時間なので、詮無きといえばそのとおりですが、ふたりともしたい話がこっちなんで、アドレナリンがでちゃって、妙に寝付きは悪くなったりもするんですけれどね。
・・・と、いうか、ふたりともこれが要るのよ、たぶん。