(これは何年も前に書かれたエッセイです)
坂本真綾さんのCDを聴く時には菅野よう子さんのアレンジでなくっちゃいけないのだ。
それはパット・メセニーにはライル・メイズ、ゼネプロをカタルには庵野・赤井・岡田・武田・各先生をまとめて引き合いにださなくちゃ意味が無いのといっしょだ。
その人ひとりを見やるのではなくって、そこに集って、作ったときに発生するものに目を見張る。
ただ混ぜ合わせるのではなく、化合して別の物質になる、という化学なのだ。
混ざるだけでは、もとの物質が別々のまま、ただ混在してるだけなのでね。
ひとりの天才がなにかを生むのはその直感によってだし、それは努力とか工夫っていうよりも、端折れるだけ端折ったショートカットなわけで、私はそれについて「すごいなあ」とは思えても、魅了はされない。
第一、まねし得ないし、再現性に乏しい。つまり、その天才ひとりの持ち物でしかない。そいつぁちょっとつらいのであります。
私は魅了されたいたちなのだ。
かなうものなら、自分でそれをしてみたいひとなのだ。
だから天才のしでかすことはどこまでいっても「他人事」以上のなにでもない。
そんなとき、複数の人たちが合点づくで作り上げる作品にはドキドキする。
それもひとりではなし得ないことを、他人と補完して強固な作品に仕上がってると、クラクラくる。
坂本真綾さんの歌は彼女の声と、菅野よう子さんのアレンジのものでないとピンとこない。事実、真綾さんのお芝居もプロモも菅野さんのエッセンスを欠いたものでは「ん?なんかオカシイ」とすら違和感を覚える。
いい、とか悪い、じゃなく、この違和感が本物なので、自分の惚れ込んだところが、ある「コンビネーション」(コラボっつーの?この語もよくわからんのよ)の上には存在するのを見ちゃうと、ああ、特定の人に魅了されてるわけじゃないのか、と振り返る。
クドカンにしても「大人計画」というOSの上で「素敵!」とは思うし、そこを離れて活躍されても「んん?」ってきっと思う。
作り手はあるベクトル(方向と力加減)を持っているものだ。
だから作品というのはどんなものでもある方向を指向して一直線に向かおうとする。
それなのに、コンビネーションの上にできあがる作品はベクトルの違う人材が連れ立っているのに、キチンと方向を放っている。
不思議!すごいじゃん。それも受け手に解釈の余地のある作品が上手に生まれてることが多々ある。
豊かさ、っていうのは複数の、より多くの複数のひとたちが各々の解釈の余地を楽しむことなのかもしれない。
と、したら、作品はその「自分勝手さ」よりも、受け手の解釈の自在さこそが本命なのかもしれない。(と、いう一つの仮案)
とはいっても、所定の天才があるから、そのイレギュラーな出没の感じが愉快だし、きちんと軌道にそったものに辟易としてる人間には「やった!」って嬉しいんだし、天才は天才で素敵なんだけれど、今はその「ひとりでは魅了しきれない存在が、複数のコンビネーションを以って、一人の天才では到達し得ない着地点」を得る感じがものすごく好きなのだ。
それもある特定の相手でないと発生しないユニークなコンビネーション。完全でも完璧でなくてもかまわない。
ただこちらを魅了してくれれば、それで嬉しくなる。
すくなくとも、私はそういう創作に心底憧れる。