賢さが誘導する不満もある | アメブロなpandaheavenブログ

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最近漫画の先生始めました。
好評です☆

写真を撮ったり映画を見たり。でもやっぱり普通が一番!
みんなも無理しないでね!

 

福澤の官学批判はエスカレートしていく。前に触れた1887年の論説「国民の教育」では、「人民が私の目的にする其教育に公けの金を使用するは正則にあらず」と主張した。

教育とは、子供を成功させたい、立身出世させたいという親の「私情」によるもので、そもそも「公共の資金」を支出する対象ではない。ただし、なにも教育しないのは「社会全体の安寧」に問題を生じるので、読み書きと多少の算術までは政府が負担する。

それ以上は親が負担すべきで、政府が「高尚専門の教育」に費用を出すのは「余分の世話」である。

なるほど、理屈ですね。腑に落とせます。

まだ学校制度の定着も浸透も発展途上である際には、土壌自体が座りが悪さは柔軟さの裏返しでもあり、「すべからく学べるべきよ」などのある種の呑気なシュプレヒコールが「未だ浸透も存在してない時勢」なのを勘案しなくては見誤る。

 

学びはあるに越したことはないけれど、人によって馴染の具合は好きずきや温度差のあるものだから、「生きるための職能」みたいな側面は否めない。無けりゃ無いなりにも生きていもいける、というある種の「贅沢の域」のものだ。

金持ちはよい服を着て美食するが、貧乏人は粗末な衣食で満足するしかない。これが世の常態である。

まっとうです。福澤さんに聖人を重ねる必要はないのですから。

ただ、彼はそうであった、でだけで済ませいてよい。余計な装飾や美辞麗句、ほまれは無用でいい。

篤志家による資金提供などで運営される私学と違い、官公立学校は金持ちと貧乏人とを問わず強制徴収した税金によって設立され、運営されている。つまり、その費用には食い詰め者から徴収した税金も含まれている。

 

ところが、税金で作った「盛大高尚」な官公立学校の恩恵を受けるのは、もっぱら一握りの「貧書生」だけである。優秀な若者を見捨てることは忍びないが、「公共経済」の観点から見て、限りある税収で無数の「天下の貧才子」を養うことはできない、と福澤は断言した。

 

貧乏人に高度な教育を与えてはならない第二の理由は、「社会の安寧」を乱すからである。

 

学問を修め精神を発達させると、どうしても社会の不完全さが目につき、不満を抱くようになる。最大の不満は、もちろん我が身の不遇である。そういう人間はなんとかのし上がろうとして「結社集会」「新聞演説」といった手段に走る、と福澤はいう。

なるほど然り。この慧眼は教育の極初期に備わっててよかった。

反骨というか、不満分子の醸成。これは現代のSNSにも通底しまいか?

「智力」が成長しても、それを実地に活かせる地位や財産がなければ「憂患」となるだけであり、就学する貧者の数が増えるほど「社会の安寧」を脅かす原因が増える。

この理(ことわり)があまり顕在化しない事実にしても、常々なくならないことだ。

おおっぴらにつまびらかにせずとも・・・みたいな公然であり必然でもある。

 

社会不満の噴出の糸口に教育が与するのは目に見えていた、ということでしょうね。

福澤は、教育と社会不安との関係をかなり長期的な視野で捉えていたようである。三男の三八によれば、ちょうどこの時期、福澤は共産主義への懸念を周囲に語り出したという。まだ共産主義というものが存在していることすら一般に知られていない時代である。

いま、の正確な把握は、今後来るイデオロギーの「来るべき波」の予見を適えてて、正鵠を射ている。「こうであるので、将来こうなる」は「今現在の正確な把握」があってこそできる。

運動が起こるとき、そこにはマグマのようなエネルギーが蓄えられるときプロセスがかならずある。「溜まる」だけの期間的猶予は必ずある。急には破裂も爆発も起こせない。

言うなれば「来るべくして、起こるべくして」そこにあるだけである。今を正しく観察してれば、おのずから、という話でしょう。

 

なるほど興味深い。

教育はその最初から問題の発生を見抜いておられたわけですね。この視野はなかったなあ。