「賢さという愚か」のエッセンス | アメブロなpandaheavenブログ

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最近漫画の先生始めました。
好評です☆

写真を撮ったり映画を見たり。でもやっぱり普通が一番!
みんなも無理しないでね!

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みんなジャケットを着て小綺麗にしている。街頭闘争を掲げた中核派に対して、彼らは“理論の革マル”、インテリエリートを自認。恵まれたエリートだからこそ、正義感だけで活動に没入できた。革命のための正しい暴力があると信じて疑わなかったのでしょう

正しさって容赦のない暴力の根源になり得る愚かさがある。

「正しいから」は疑わないで済ませる愚かさが、それ自体を疑いもしない。

ワンイシューに凝り固まる連中やらイデオロギーの連呼だけという念仏みたいな人らに大差がない。

川口君にみな暴力をふるうのですが、その動機は様々だったでしょう。正義と信じて殴る奴のほかに、組織内の出世のために殴る奴もいれば、ただ嬉々として殴る奴もいたはず。本当は殴りたくないという人も。

この手の温度差がある集団は、各々の事情で恣意的かつ任意な凶行だから、収束にも手間取るし、やめるのにも淡白なほどあっさりもしてたりもする。翻れば「どうかしてた」で片付けられるような無思慮がはびこって見える。

“革マル派は人の膝の皿を割っていた、それが世界を救うこととどう結びつくのか”などと疑問も出たという。だが、彼らの革命や思想には踏み込まない。「踏み込めば、中核と革マルが対立した袋小路に再び入ってしまう

理屈に立った行動のはずが、その根底が損なわれる畏怖から正視する勇気をパージしてる。自らを鼓舞するものが傷むなり怪しいことは、無惨なほど人を狼狽(ろうばい)させる。

人間的に劣るのはこうした「なまじっかの論拠を持つ人ら」の側なのだろう。

生まれついでの愚かさであるなら、まだ自己完結で済むが、内ゲバにいそしめる人らの「腹の底の妙な不安」のはけ口とあっては、もはや他責そのもの。

仲間同士で殺し合う奴らなんだと、世間の“ブーム”は急速に萎んでいった。今やその記憶すら薄れています。

あの世代にあった人ら自身も時代の空気の飲まれた、みたいなスタンスから出ても来ないし、積極的な説明に足る衝動の言語化にはしくじってるんでしょうね。

ただ「みんながそうだった」ではじめた愚挙は、その人に生涯「なくならなさ」という十字架も背負わせてると思う。加担したとか・しなかった、は「結果」でしかない。

凶行はあったのだから。