今は思うんです。
人は言ったら行った先の地平でただ生きるのだと。
好きとか嫌いではない次元で、「そこは、ただ、そう」なだけで、そこで過ごすのだと。
思ったとおりがいいだとか、思ったとおりじゃないから嫌いだとか、どうってことでもないだとか、どーでもいーってのは、全部「感想」でもあり、重要視してる理由も自分自身の内側の話。
行き着いた先を見通して「そこに至った」人って少ないと思うし、仮にそう適ったことは「思い通りだった」ことで幸いとは限らなさ、ってのを、適(かな)っちゃった人は適ったなりに「・・・・こんなんだったんだ・・」でしかないことも多々ありますんでね。
成り行き任せってのはどうかとおもうんだけれど、行ったら行った先の良さがあるものだから、そりゃ辛かった、嫌だったことをかいくぐった先の「今」なのだと、諦観(ていかん)も込みで「よし」とする心地も、大事にしていいと思うのです。
「そうじゃなかった」が真意の人もいるし、そこをないがしろにもしたくないのですが、それはそれで「そうでありたさ」をかなえてもいます。
かなっても、かなってなくても、さほど大きな差ではないのかもしれませんね。