(これは数十年前のエッセイです)
このごろ自分のこと以外のことでいろいろ投げ込まれる類いの忙しさってものがとても増えてて、それも放っておくとヒデーことになるものが多いので、憤っています。困ってはいませんが憤っています。
流してもいいかもしれないけど、それも自分のためにはヨカナイよなって思っちゃうところがあるのでついぞかかわり合ってしまう。
これがまたあんまりよくないんでしょうけどね。
一方で、音楽が非常にいい。バンプ・オブ・チキンのオンリーロンリーグローリー」とかアジカンの「リライト」、ACIDMANの「アレグロ」、ザ・マスミサイルの「いままで何度も」など、ま、似たニュアンスの曲たちなんだけど、「Jポップ」とかいうヘンテコな曲たちとは明らかにその趣旨を異にする音楽に活況があるのだ。つーか、世間的に支持を感じるのだ。
Jポップなんてくくりをされたときに、じゃあアジカンとモー娘が同じカテゴリなのかよ?ってなことになるとムショーにトサカにくるわけです。
んなもん一緒なわけねーだろー!!という痛みにも似た怒りでパンパンにふくれあがるわけです。
怒るなよー🐼。
ってまわりに言われることも増えましたね。
んー、でも怒ってる、というのとはちょっと違うんです。
よく使う感情が「怒り」なわけです。その感情が発露したあとにやっと自分の伝えたいニュアンスがいきてくる、っていうのかな。
実際の相手の誰彼に「バカヤロー!」ってなもんとは違うんです。
音楽が投げ込んでくる「言いたい事はこれなんだろ」ってニュアンスと近い。
自分のそのとき持ってる感情って「それをぴったりに表現するスピード」ってものもあるでしょう?心底怒ってたらスピードもあがるし言葉は追い付いてこないし、あわててるし、しっちゃかめっちゃかでしょ。
その「脳の中ではしっかりしてる」スピードのまんま出したいんですよ。
それが日常生活の「スピード」じゃ、いざ表現するのにノタクタしてて嫌んなっちゃうんですね。
その時、わたしが出したい感情のスピードは「怒り」の湧いたときのそれに近いんだと思ったんです。泣くのも笑うのも怒るのも、そのスピードがどこかぴったりなもの、よく使うものに近付いていくんじゃないでしょうか。
エッセイたくさんよんでくれてる人には分ってもらえると思うんですけど、エッセイ内でわたしはしこたま怒ってます。「喜んでいる」ことも多いけれど「怒ってる」ことに任せた文章の方が洗練されてるような気がします。
それはそこで生まれるスピードが一番馴染むってことなんじゃないのかなあ。
なにかに「コノヤロー!!!」って思えるのは、自分の中で持ってるものと自分の外とでのギャップをみつけて、よせばいいのにすり寄せていって、みすみす摩擦を生んでいるようなもんですもんね。放っておけばそうならないものをガリガリと音のするところまで感情を押し付けていって、当たり前にガリガリ音をさせて「コノヤロー!!!」と。
怒りってものが体に出してくれる分泌物になにかあるんでしょうね。
ふだんのノラリクラリとした感情量では達しない視野に風が抜けます。
「言えてないのはこれだ」ってところに自分が運べるんです。
正確には「怒り」そのものではなく、「怒りを使って引っ張り出す感情」が多用されるわけです。ねらい目はそこなわけです。なので、これにぴったりな言葉がないので「コノヤローな気持ち」という表題になってるわけです。
外国語にはもしかして、こんな感情にあてはまる単語があるのかもしれない。
ちゃんとあてはまる語意(ボキャブラリー)がないってだけで、世の中のスゲー数の人が「黙っておく」を選択しちゃってるもんですよね。そこに脱出口を用意してくれるのが「音楽」とかな
んでしょうね。
アジカンの「鋼の錬金術師」オープニングみました?カッコイーよねー、すげーよねー。なんか「ほとばしる」感情をつめこんでる。走ったままじゃないし、座ったままでもない。でも誰にも「どうしたい」って帰結に至ってない印象があって、みんな一斉にもがいてる感じがとてもうまく出ている。
ヒーロー一人が突出してる子供向けアニメとちょっと違うニュアンスなのは主人公がすでにその若さで眉間にしわをよせながら戦っていて、その将来に安心できる未来があるのかないのか分からなくなってるままに、それでも進んでる、という足取りに迷いのある作品なんですよ。
単純なものが見たいんでもないんです。
ちゃんと「見通せる」ものに触れたい、って時に、鋼の錬金術師のアジカンオープニングは「複数の感情」を上手に表現した傑作なんですよ。
仲間の誰もお互いになぐさめきれないものを持っていて、そのくせなにもしないわけにはいかないところに立っていて、「なんとか優しくあろう」とはしたいのに、ってときに人間のしてしまう失敗を、自分で悔いる。
でも、この「正直さ」が今みたいなただややこしいだけで面白くない時代の空気にはぴったりなんでしょうね。面白くないもんね、時代の方がさ。
「時代が悪い!」とかエー加減な言葉になると、突然チープになるので控えますけど、それでもぶつける相手を持たない今の時代の「うさんくさい優しさ」のようなものは「真綿でクビを絞める」ってことなんだと思う。
んでもって、そこを突破するのは普通の感情なんかじゃ無理なんだよな。
理路整然としたなんかじゃなくて、ゲリラ的な、急転直下なインスピレーションだと思う。そのとき、わたしには幸い「コノヤローな気持ち」が一番役に立つもののように思えるんです。
発散がしたいんじゃないんですよ。
ちゃんと感情を使いたいっていってるんですよ。
ガス抜きみたいなんじゃなくてね、キチンととらえて、的確にレシーブしたいんですよ。
そうしたものに言葉でも、音楽でもいいから「あてはめる」ものがなくっちゃやっぱり悶々としちゃいますもんね。
それがわたしには「コノヤロー!!!!!な気持ち」なんだってだけです。
みんなのそれはまた別のものかもしれない。それでもアジカンやACIDMANみたいな曲たちが評価されてるのは、全時代的に「コノヤロー!!」なものがきてるような気もしますね。
相手を許せない、とかいうんじゃなく
ぶっ潰してやる!とかいうんでもなく
自分が「コノヤロー!!」って思えたいきさつに自信が持てて、走り出すきっかけになれれば、きっと、スッゲー、うれしいんですよ。そここそがミソなんよ。ミソ。