(これは数十年前のエッセイです)
ヘブライ語を復活させて、実生活で使う運動をしたユダヤ人の本を図書館で借りてきて、2週間で読み切れなかったので今日再び借り直しました。
ユダヤ人って「民族」にしては人種的な統一性はないし、言語もバラバラだったし、現在のイスラエルだってパレスチナ地域を無理矢理って感じだし、常々変な印象を持ってたんです。
ベン・イェフダーって人の本なんですけど、自分の家の中では誰であろうとヘブライ語しか話さないの。新聞発刊してもヘブライ語のみだし、ああ、これって「信念」ってのよりも、やっぱり「止める理由がわかならい」という、ユダヤの人特有の頑強さ、ではないかと思うんです。
本としては大変素敵な読み物ですんで、お暇のあるかたは御一読お勧めしますですよ、はい。
このごろ、家族や知人に事故や怪我、訃報が続き、生きるってのはなんか不思議だ・・とか思う事が増えたのね。
増えたところで、なんか明解な結論に至るんでもなくってさ、やっぱりいつもの生き方の上に
自分があるのです。
なにか、持ってるってのは幸せかなあ、とは考えましたが、あんまり幸せってのとは違う感じがします。
「鋼の錬金術師」というマンガではしきりに「等価交換の法則」という言葉が連呼され、幸せを維持したり生み出したりするには、相応の代価が準備されなくてはならない、と話は進んでいます。
んー、なんか心当たりには触れてくるテーマなんだけど、どこか飲下せないところがあるみたいなんですよ、わたし。
「等価」でスタートしてたら人類はもっと均一に幸せなのかあ・・っつーとそれもなんかぎこちないオチに行きそうですよねー。
んでさ、「スカパ」を引き合いに考えてみたの。
スカパーってさ、チャンネルがものすごくたくさんあるじゃない?
わたしも20チャンネルほど契約してるけど、見たい番組の傾向にあわせて自分でチョイスできますよね。
でさ、テレビってもっぱら自分が見るテレビっていくつもあるわけじゃないでしょ?
でさ、20チャンネルだろうと50チャンネルだろうと、そのとき見れる番組はひとつなわけじゃないですか。
20チャンネル契約してても、ひとつ番組みてる向こうで、19チャンネルは違う番組を併映してるわけで、これを「見たい番組が見れて幸せだ!」としてもいいし「残り19チャンネル見損じてる!」って思ってもいい。
たくさんチャンネル契約してるつもりでもさ、見れる番組はそのときにひとつ。
そう思うと、「チャンネルの数」は果たしてなんなんだろー、とか思ったわけです。
「見たい!」と思った時に見れる「可能性」を広くしておく、程度の幸せが増えてるってことなんじゃないのかなあ、と思ったわけです。
「見れた!」と「見れない~」には幸せの印象は天地の差がある。
でも「見れるけど」と「見ない」は両方とも「見てない」にも関わらず、幸せの感じは違う。
つまりは「自分でしたいことが思い付けたときに、そのままできるかできないか」程度の差、が幸せなのかもしんないな、といきつきました。
お金持ちですとか、社会的成功者というものは「自分がすることを実現する」選択肢をふんだんに持ってるわけですが、悲しいかな時間の流れ方はそこいらの野宿の人たちとなんの差もないし、実現できることの量ってのもそんなに大した差とも思えないのだ。
ただ、準備高ばかりが多いか、少ないか、という差まではひとまず分かる。
そう思うと、
世の中にそれほどうらやましい人っていうのがいないような気がしてくる。
わたしはあんまり人がうらやましいって思わない方だし、じゃあなんでこんなエッセイ書いてるんだろってなもんよね。
んー
なんかね、
こんなに手ごたえのない世の中って感じがね、もったいないなー、と。
ホントはもっと幸せなんじゃないかな、わたしたちはと、思うんですよ。
それがどーも、ホラ、スカパの「残り19チャンネルにチクショー」なことばっかり考えさせられてるような、ツマンなさが押し付けられてる感じがしてね。
どーも、ツマンネー考え方の方にばかり押し進められてる感じしません?
「正しいばかり」を叫んでる世の中はやっぱりつまんないしね。
「正しくないけど面白い」がもっとあってもいいよねー。
そーゆー漠とした不安ってのはなんの役にたつんだろうねえ。
ベン・イェフダーは偏った考え方をする人だけど、それでもヘブライ語という死滅しかかった言語を現代に普及させる運動を成功に導いた。
病気持ちだし、周りの人には理解されないし、したいことばっかりがんがんやって、貧乏で、話を読んでても「しあわせ~」って描写はほとんどないけれど、それでもなにか、「目先の自分には不幸だけど、それをあがなうほどにはもっとでっかい幸せ」を見やってる人の姿勢のよさがね、なんかこのごろ伝わってこないいい話だな、って思えました。
このごろの世の中ってーものはさー
ポップでインスタントな幸せが連発しすぎてたってことかもね。
んで、大量生産で安普請なもんだから、金属疲労も早かった、と。
一斉にプチ幸せに至って、一斉に、それも大量に破綻してきてる。
つまり、重みのある「幸せ」にとっくり時間と手間をかけたい、という旨のエッセイなんだな、これは。きっと。うん。そうに違いない。