サンドイッチマンさんたちの果たしてくれてる安堵の理由 | アメブロなpandaheavenブログ

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最近漫画の先生始めました。
好評です☆

写真を撮ったり映画を見たり。でもやっぱり普通が一番!
みんなも無理しないでね!

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サンドイッチマンさんのラジオ聞いてて、リスナーの方からのおハガキに、能登で罹災された若い方のものがあり、被災する前はサンドイッチマンさんの東北での大地震の話を「そーゆーこともあるんだ」程度で聞いてて、いざ自身がその被災側になって、骨身にしみたってものがありました。

 

サンドイッチマンさんが好感度を云々とか巷ではキャッチみたいに言い募るけれど、真っ先にアンテナが受け取るべきは、あの東北一帯の大地震以後に、平時になっても大地震の記憶を怠らずに番組内に残し、語り継ぎ、悲しみや途方に暮れる人に寄り添い続けてた漫才・コント師二人組という「途切れなさ」をこそフォーカスすべき点のはず。

 

実際、東北の自身以後に、頻発しだす国内での大地震とその被災の連続のうちに、サンドイッチマンさんがメディアを介して励まし続け、提言を加え、弱った人に寄り添った姿勢や物腰の雄弁が、なにより強く励まされる仕様にもなっている。

 

そしてなぜ他の芸能人にこれだけの機会がありながら彼らほどの親身がないのかを比べることにもなった。伊達さんなんかの親愛の情からくる後輩たちへのあしらいなどは、コンプライアンスを遮るようなものもあるのに、嫌味にすら感じなくて、周囲もそんな無粋な指摘もしないで済むのは、彼らへの絶対に親しい安堵が常々放流されているからだと思う。(後輩の芸名の改名とかすさまじーじゃん)(面白いけど)

 

大地震ごとに日本国や政府機関がどんどん目に見えた手配の鈍化を繰り返し、やれ自主避難だから公機関はかかわらないだとか、ボランティアに頼るだとか、お金出して買えだとか、公機関・公職の方々の言動の劣化の一途のさなか、能登の震災の際にはトイレトレーラーを派遣できるほどの支度を整えてたのはサンドイッチマンさんたちではなかったか?

 

こうした誠意が政府より上回って常態化してた事実は、日頃の振る舞いにだけ人々が快せることを示している証左だと思うんです。

 

大阪万博に投じたリソースや海外に資金を投じ続ける現在の首相の意向は、国民感覚に乖離(かいり)した向こう勝手さこそ伝えてくるも、サンドイッチマンさんたちみたいなぬくもりや肌感覚は皆無だ。ほとほと見下げたくなる。岸首相、あんたのことだよこれ。

 

東北の大地震以後に頻発する地震ごとに、彼らの励ましや助言がまるで「こうなることのため」みたいに、幹を太くしていっている。

 

こうした人が人を思いやれる心地一つが求められるときに、これができる存在の希薄さが嘆かわしい。こころがけが、有事に花開く支度をしてた人らは、随分少なかったんだなって、サンドイッチマンさんがしてくれてきてた支度を顧(かえり)みるごとに、しみてくる。