「好きであること」と「妊娠」と「出産後」を見渡せる年齢でもないうちの育児への助走時期は、人生が大きく転換することになるのが、ヤングにはわからないし、わからざるを得なくなるときに至ってはじめて「そういうことか」と世間が諌めたり、慎重を強いてくる理由を「後付」で知ることになる。
その時には、もう「新しい命との・どちらかが亡くなるまでは連綿と続ける関係」は発生し、途切れない。制度的に距離を稼げても、経験という事実の前に、ないことにはならない。
かえせば、他の生命を宿し、共に生きれる時間を若いうちに持てた幸いもある。
今の時世では稀な方にカテゴライズされる傾向があるけれど、生命としては幸いなことでもある。
こーゆーのは「意味」とかいう次元ではない。
そうである、という厳然とした事実だけがそこにある。
どう解釈や注釈を添えたところで、眼前の命を共に生きだすだけである。
生きることと同じく、解釈いかんでそのあり様も意味も随分変わること。
この局面になったのなら、もう否応はない。応じて生き抜くうえでの最良を目指すだけになる。