以前に触れてます、相棒のとこで仕事上の経緯で精神を病んでしまわれた方がいらっしゃった事態の、事後の算段で相棒んところがリアルタイムで月内はドタバタになっています。
残された人らが今の人数で回すために、果敢に工夫をかさねてはいますが、空いたシフト表の穴埋めに際し、どうしても恨み節みたいな言葉を発したくなるのも必定。
軽口というか、発散のつもりで恨み節が飛び交うたびに、相棒は日に日に不愉快そうな顔つきを隠さないようにしてる。
それは、今回シフトを外れた子というのが、精神を病むまで精一杯やっていたけれど、病むほどまで精一杯やってたのを知っており、無理を承知で堪えてはいた事実に軸足をおいてのことでした。
一方で、残された、シフトを穴埋めする側の人らの論調に「つらいのはわかるし、逃げ出したくなるものわかる。
けれどみんなそれで乗り越えたし、私も辛かったけど乗り越えた」を言外にも口頭にも隠さない人らが大半。そこに相棒は閉口している。
「できる我慢の幅や量」は、人間それぞれだ。
人ごとにてんで違う。
優位な点も、不得意な点も、合致なんかしない。
だから、不得意でも誰だって我慢できるギリギリまでこなしたのであって、そこでリタイアを申し出たのだから、そこを追い打つみたいにあげつらうのは違うのではないか、の思いが相棒に濃いのが話しててわかった。
リタイアに至った子が、そのまま「がんばらされて」も、取り返しのつかない症状まで行き着くのも必定だったし、それは弱さ所以でも、我慢ができないわけでもない。
その人にできる我慢は総動員した。
そして「それ以上」をするとき、人生が破綻しかねないほどの故障を自身にダメージされるのが予見されて、やむにやまれずの身の処し方でした。
仮に「行き着くとこまで行き尽かされた」とき、その責任は、「いま、文句を口にしてる人ら」は背負えないだろう。
そして、それでも「自分は我慢してたのに」を口にし続けられると思うとでもいうのか?
相棒も🐼も「やむにやまれぬの向こう側」まで渡った口なので、人生のうちでそれが釣り合わぬものと知れてる。
退避は至極真っ当な判断としか思わない。
そもそも退避が要る、を強いる方が悪い。
されど「健常者」さんの精神構造は、精神を壊すことをまだ達したことがない。
回復はできるものだと思ってるし、実際体験もしていないので、精神の破綻は想像の産物でしかない。
回復できない、で潰える命も見たことがない。
知ったふうな言葉で、リタイアした人を・そこにいない人のことを人をなじれてしまうが、つまるところ「壊れ切ったとこまでまだ行ってない」が故の、想像力で怯え、怯み、回避を試みてられる足場から、飛び出してもいない側の人らという厳然とした事実。
味わいかけた、ってだけで実際にそのルビコン川を渡った人が、渡らされたが故に、回復の際に「人生を賭すほどの工夫」を迫られた実相も経緯も、未経験で済んでいる。
ざっくり言えば「怖いだけ」。
怖いだけ、から、ものを言ってのけて、いくらか溜飲を下げている、のもわかるところではある。
が、
今事実として困難に陥ってて、人に会うのもアドバイスされるのも、繊細すぎて弱りきった「同僚」への態度に、相棒は憤っている。
相棒は言った。
「私はたしかにわかりが悪い方だ。
だけど、100人中、100人が、(今回のリタイアした同僚のことを)悪く言ったって、『あいつは悪くないね』って言ってやるんだ」
そういった。
私が相棒と知り合ってから、相棒それをしでかして、積み重ねてくれたのを🐼はみてきた。本当にそうする。
だから揉める。
揉めても曲げない。
一切譲らない。
職場に今、蔓延しつつある空気のうちに「あの子はかわいそうだったね・・でもさ、私たちだって大変ななかをがんばってきてたんだもんね。そんなことじゃ逃げ出せないよね」を基調にした、軽口めいた同調を互いに流布(るふ)しだし、雰囲気としてリタイアした子をなじり出す風潮というか、排斥しやすそうな論調がまんえんしだすのが、相棒には俄然我慢がいかない。そんなこと、しなくていい。
だって壊れる間際まで頑張ってくれた同僚だったから、そんなことはしなくていいことだ。
でもみんなは吐口みたいに口にしたい。
したいだけならいいのに、相棒にまでその雰囲気に飲まれなよ、合わせなよといわんばかりにうなずくことを暗に目線で探りにくる。
同調圧力
この、正体のない輪郭の悪魔
相棒はガンとしてこれを拒む。
絶対にひるがえさない。
自分にも、リタイアした子のためにも、そんなことはしない。
その「悪い空気という真綿で包むようなやり口」そのものを憎んでますって顔を隠さないし、隙を見てそれを揶揄(やゆ)する。
つまりずっと睨(にら)みつけてるのだ。
そんな同調圧力なんていらない、の意固地なまでの一点張りに、周囲も空気は察するようだ。
相棒も日頃仲良くやってる人らを前に、全然そこへ妥協点を見せずに、頑として「それは嫌いな態度だ」で貫いている。
だから摩擦が起きる。
だから雰囲気が淀み出す。
なので、🐼は相棒の側でいたい。
それでいい、という。
と、いうか、「愚痴が言いたさ」に安逸(あんいつ)加担する側にひょいと乗っかる連中の軽率をこそ、なじられるべきではないか。
ろくろく強い動機でもないくせに。
命を賭しかねない刹那にあることを、「自称・健常者」「未だ精神はたん未経験者たち」は察することができない。
・・・いや、厳密には察してるが「見ないことで済ます」に身を置いた。
怖いから。
味わってないぶん、実際に起きること以上に過分に心配と妄想で心がパンパンになってる。
「そんなことに身をやつしてらんない」が本音なほど、彼ら彼女らなりの現実に向き合ってるから。
だからといって、スケープゴート(犠牲のいけにえ)にリタイアした同僚を祭り上げる一員になることを、よしとしちゃえそうな雰囲気は、全く愚かしく、卑劣(ひれつ)でもある。
その醸成され出す「雰囲気」なるものの気持ち悪さ、簡単に吐口として「そっち側」に身をひるがえすを「軽く考えてる」連中がのさばるからこそ、こういったリタイアは常態化させられることを、相棒も🐼も懸念している。
懸念?いや、憎んでる。
された、からね。
罹患後も、回復後も、される、からね。延々。
卑怯だわ。人間の出来が、卑怯になる。
それはよくない。
いっときの吐口にしても、守られるべき一線はあるし、そこでこそモラルが遵守(じゅんしゅ)される際なのだ。
そして多分、今の日本で「自殺者」が減り切らず、減る方向にいかないし、なんとなれば訪日した外国人ですら内側にどっぷり浸かったのちに自殺に流行ってしまうほどに至るのは、この真綿で首を絞める「同調圧力」という作用のせいだ。
物言わぬ大勢が、与(くみ)してるみたいな空気
そこは、全く凛として、断固「そんなこと、しないね!」と貫く、相棒みたいな意固地の方が、絶対正しい。
そっちの側でいたい。
こっち側からすれば、「命を賭しかねない刹那にある」人に対しての、不寛容というか、無関心というか、突き放しにみえるそれらは、それこそが異常行為で、助けられる能力もあるくせに助けに行かない卑怯にしか映らない。
一つできることがある。
それに賛同を見せない、はできるはずだ。
雰囲気に「そうだよねえ」を言わせたがる連中に距離を置くことならできる。
その勇気は、持てる。
持ってくれ。
そうすれば、ひとり、かすかにも救えるんだ。