(これは数十年前のエッセイです)
夏になると海にも山にも行かないくせに、「夏の映画」を自分が求めているのが毎年分かる。心根が「なつーー!」って叫べる映画が見たくてうずうずしてくるのである。
昨今はなかなか時間をとって大雑把なチャレンジってものができなくなりつつあるので、どうしてもインナーな冒険は煮えたぎらせておきたいのだ。
毎週映画を無理矢理にでも見ると決めた夏なので、7月に入ってすでに3本見ましたがどれもこれもピンとこない。
少なくとも私は自分の感性が落ちてきたと疑ったりもしないので「愚作ばかりじゃのう!!」と言い飛ばして悪びれない。
そのさなか、「時をかける少女」がいつのまにやら封切りしてるとネットで知り、「わぁ!いつの間に!!!」って叫んで、なんで知らなかったの、俺!って思うも、無理はない、単館上映なのであった。ふおおおおおおお。
休日に睡眠時間2時間で電車に乗り、映画館にたどりつくも、誰もいやしない。
あれ?人気爆発じゃないの?あれ?あれれ、なんだか映画館ひとりじめしてるよ。
あれれれれー
さて、見たよ、「時をかける少女」
「おもしろかった!」
そして「うれしかった!」
ふむ。
いやいやいや、よかった。しっかり作ったり、真面目に作ったりすると死んでしまう作品になりかねないので、この映画のやってくれたスタンスはとてもきもちよかった。
登場人物の、自然体の感じがとっても「きもちよかった」。
ヌケているのである。人としててんで抜けているのである。この作品世界の言葉で言うなら「バカ」なので、肩に力を入れれないまま、見ることになる。
一生懸命でも、真面目でも、熱血でもなく、ふつうに、ただふつうにがんばってる登場人物がよかった。愚直に言うと「クレヨンしんちゃん」と「茄子・アンダルシアの夏」を足して割って2、の作品なのだ。
マコトは何度もクドくもくるくるドカンだし(分かる人だけでいいの)、キャッチボールもプリンも楽しそうで、美味しそうで、変なところで妙に動きがいいし、非常に上手な作品なのに、その上手さは作品の「おもしろさ」の邪魔に全くならないのが素敵。とっても素敵。
押し付けがましいものがなく、ただ登場人物の「感情」を見てられればそれで心がスン、とする作品でした。余計なものがないのですっごく楽ちんです。
走って、泣いて、笑って
そういうのに、いちいち意味があったりしなくていいんです。
欲しいのは理由や意味なんかじゃなく、スウッと通った気持ち、であってほしい。
映画だもん。気持ちよくあって欲しい。
テレビでもラジオでも新聞でもなく、映画や小説は、まずスウッと気持ちがいつも通っていて欲しい。
悲しいかな、日本ではこういう作品が実写で作れないんだよなあ。
残念ですよ、本当にね。
凝り固まった「上手さ」もいいけれど、夏だから、こーゆー「スルリ」とした気持ちが一番いいなあ。スイカみたいに旬で、ちょうどいい時に見れた作品でした。
実写版「時をかける少女」とはまったくくらべる必要がありませんでした。
葛藤なんかいらないし、決着をつけることが大事でもなく、それ、その時に自分が抱いた感情に答えをあげたい、っていうだけで突っ走る人を、人は愛おしく見守ってしまうんだから、そういう簡単で単純なものに一生懸命を、たくさん見たいな。