わたしたちはまだ そこにないものに恋いこがれる | アメブロなpandaheavenブログ

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最近漫画の先生始めました。
好評です☆

写真を撮ったり映画を見たり。でもやっぱり普通が一番!
みんなも無理しないでね!

(これは数十年前のエッセイです)

 

「エースをねらえ!」がスカパーではじまり、オープニングを見た。
すごい!何度でも見れる!飽きない!深い!クオリティの話をするのなら昔の絵柄だし動きもぎこちないところもある。でも人がそれに見ているものは、実際の目の前のものではなしに、こっちの心に芽生えた、イマジネーションの竜巻きのようなものである。

 

 

 

DAICON4を勢い見直してみた。すごい!やっぱり心に竜巻きが起きた。
なにがすごいって、どこの誰ももしかして見ないかも知れない作品を100万かけて5分そこそこの作品にして、誰に頼まれるでもなく、とっくに作っているという事実。



もしこの作品が全然世間に認知されず、誰にも知られないなんてことがあって、これが100万円だっ!っていわれてたら、私は間違いなく、何年かけても100万準備する覚悟ができる。

素敵な作品というものは「いくらとかどうとか」ではなく、理由のうんぬんを越えて「手許にあってくれるなら、なんだってできる」という信念、いや執念に近い業のようなものに化ける。

イキオイはそのまま続き「オネアミスの翼」パイロットフィルムを見る。
映画がまだ作るとは決まってもいないうちに、これだけのクオリティを手前勝手な理由でまず先に作っているという事実。そして作品そのものはまだ世間に生まれてもいないのにもう見た人がかってに「すごそう!」とドキドキしはじめられてしまうこの事実!

 

 

のちにガイナックスになってゆくゼネプロの精神の好きなところはこうした「もしかしたら誰も君たちに手をさしのばさないかも」ってことを、それでも手前勝手に、
「まず自分が先にギフトする」ことを心得てるバカさ、を感じるのだ。


相手の出方をさぐったり、疑ったりするとかいうみみっちい小技をすっかり置き去り、まず先に自分の持ってるクオリティのサイコーにイカしたところをボテくりかますという暴力にも似た大量のサービス漬けである。

エヴァンゲリオンが大成功したのは、テレビシリーズってものの凡庸なサービス量から並外れた情報量・サービス量の多さ、過激な偏りの発揮という奇襲のようなパンチだけど、そんなことはガイナックスにとって毎度のことで、それがアニメファンから一般の人に対象を変えただけのことなので、いまさらなのである。

いやいやそーゆーことじゃない。
「エースをねらえ!」のオープニング。このくり返し希望の持てる視線のよさはなんなんだろう。
かれこれ30年近い歴史にすらなりかけたこの作品のめざしてくる鋭利な目線の綺麗さは今日またハッとさせられたのだ。

ちなみに「涼宮ハルヒの憂鬱」「らきすた」なる京都アニメーションの放つダンシングなオープニングを比較してみてみたんだけど、どうも、なんだか、萎える。

面白いけど、しょんぼりする。生きる糧にはならない。

でも「エースをねらえ!」はもしかすると、この作品で生きる方向をかえる人が出てくるかも知れない!って予感を秘めさせるのだ。地震のような、地鳴りのような微震を感じる作品なのだ。

 

絵柄や動画枚数は貧弱かもしれないが、大量に埋め込まれた「ガッツ」のような本気ぶりが作品世界からひしひしにじみ出して来て、「こんなもんじゃすまさないからね!」と作品の方が凄んでくる印象が図太く残る。

例えるのなら、喧嘩、としようか。
「涼宮ハルヒの憂鬱」「らきすた」あたりの喧嘩は「口論」で勝ったの、負けたのを言い合ったり、ひけらかしたりする手合いのレベル。
「エースをねらえ!」は「ケンカなんか、してしまうから勝ち負けが出るんだよ。よく考えな。
喧嘩なんかしないで勝つ方法ってのをさ」という、大人の目線の凄み。
(変な例え。)

生きる、ことに肉迫するものは誰にだって他人事でなくさせる。
「他人事」扱いにできるスチャラカさ、が作り手の根っこに見えてしまったら、私はなんというか「作るってこと、やめてくんない?」と思ってしまう。
こっちはいつだっけガツガツ餓え切った心証で、心底自分に「要る」作品に対峙したいのでナマクラなスタンスにつきあわされると俄然憤るのよ。

おっと、激しく脱線。
オープニングにメロメロになってから、いざ作品を見るんだけど、オープニングで直感した世界観があまりに大きすぎて、本編以上に、オープニング世界の描く世界に恋いこがれ続けていたい、って感覚をお持ちになった方はいないだろうか。

それなのだ。私が言いたいのは「実際の物語」そのもの以上に、オープニングやパイロットフィルムが示した「予感させる期待パンパンなとんでもなくデカい世界」をなんで、このまま大事にできないんだろう、ってこと。

私達がもしダイナマイトであるのなら(なんちゅう例えだ)、あとは「点火」されるだけで十分威力を発揮するのだ。いかんせん、世間にその点火プラグが見当たらなかったりする。
悶々と点火の機会を失い続けると、それに無気力に「慣れる」ことばかりだと錯角する。


そうじゃない。
そうじゃないのよ。


上手に点火さえされれば、おおむね私達は威力を発揮する、そういうふうに人はできているんだ。
いっそ「世間の点火下手っ!」くらいに吐き捨ててもいい。自分はあくまでも魅力たっぷりなパンチの効いたダイナマイトであることを疑ってはいけない。

「エースをねらえ!」にはそれがある。点火に足るすごみがある。
その作品世界に負けたり、翻弄されてもいいかな、って迷えるだけのイキオイがある。
でも本当にすごいのは作品そのものではなく、作品を経過して点火されてくる「自分」という燃焼部分なのだ。それがでかくて揮発性が高くて、発火点が低いとアッというまに大爆発できる。そういう馬力で、人間はスタートダッシュをはじめるのだ。

作品がすごい、というとき、正確には「その作品にブンブン振り回された自分のイマジネーションこそが本当は凄い!」という方がいい。グッとくるよ。つかめるよ。

小手先に、上手に生きたいっていうみみっちいゴールを背負う人は、それでもいいけどさ、長く深く大きくフルスイングを憧れたでっかいでっかい燃焼を希求する人はさ、自分を点火するものを、正確に見分けること、もっと大事にした方がいいと思う。
そうそうおいそれと、小さくボンボンやってんじゃないよ。小出しにシューシュー燃えてるんじゃ火薬、使い切っちゃうよ?


濃厚に、緻密に、大爆発を産むエネルギーにはさ、ぎゅうぎゅうに詰め込んだ火薬に適切な点火。これにつきるのよ。あなどるなかれ。真剣に挑むべし。