当てもなくふらりと旅に出るということもしたことがない。若い頃、同世代に「バックパッカー」という人たちがいて、海外をあてもなく旅行していたが、どうすればそんな旅ができるのか、動機も方法もわからなかった。バイクや車で「あてもなくふらりと旅に出る」ということもしたことがない。
すごくわかります。
🐼の場合、若いうちに「旅に出る」友人が、楽しいって言ってるのを聞き受け、旅が楽しくないわけ無いじゃん!と若いうちから楽しめちゃうのに、いくらか躊躇(ちゅうちょ)というか、後ろ髪ひかれる思いというか、妙な割り切れなさを覚えたものでした。
年取って、小銭残ってるときに出るのが旅、位の認識でしたので、ふらりと何処かに出向く、が基本的になかったのです。
ふと理由に思い当たった。それは私がものを書いている時に、あっちへふらふらこっちへふらふらして、そこらに転がっているものを細かく観察するせいなのではないか。書きながら脳内ではずっと散歩をしているので、実際に歩く必要を感じないのだ。
ううっ、わかる!
思索の旅の有意義さ、奔放さ、自在さに比べてしまうと、実際の移動やてはず、支出や調整などは煩雑に見えてきて、それでいてそれに必ずしも見合うとも限らぬ結果なるものが、相当するものでるか?などと妙な詮索クセがついてたりします。
物語を書いている人は夢を見ないのか……とその時は仰天したが、私も似た症状なのかもしれない。ものを書くときに限って、脇道に逸れ、立ち止まり、道端にある「変なもの」の観察に時を忘れるのは、私にとっては散歩の代償行為なのかもしれない。
「それがどうした」と言われそうだが、まさに「そういうこと」を書かずにいられないのが私の症状なのである。読者のご海容を乞う。
内田先生に賛意をお示し申し上げたいのです。判る判るの目白押しでした。
脳内の忙しさ、賑やかさは代えがたい至福です。