荒木飛呂彦のマンガ『ジョジョの奇妙な冒険』第2部に登場し、のちに有名なネットミームになったものに
「そのうちカーズは 考えるのをやめた。」
がある。ジョセフ・ジョースターとの戦いの果てに宇宙空間を永遠にさまようことになり、死にたくても死ねなくなった究極生命体カーズの末路として、とても印象的な一節だ。
へえ、そーゆーのんがあるんですね。
拘泥させにかかる要因を、ハナから排斥しとけば、煩わしさや蒙昧な気分から開放されるには違いないでしょう。
ビリヤードのキューから放たれた手玉は、あちこちであちこちで玉同士干渉しあい、およそ「思い描いた」帰着とは言えない景色に至る。それを楽しむ球技。
思った通りでなさ、をハナから見据えてありさえすれば、さほどヤキモキするところではない、ってのがわかってても、どうにかこうにか寄せることに執着執心が逸ります。詮無きことに、むざむざと憤りに向かう。
禅やマインドフルネスでは「今この瞬間に集中せよ」と説く。それが悩みや心配、負の感情を手放すことにつながる、と。
しかしそうは言っても、人間が先々のことをまったく考えずに生きるのはムリだ。
「未来に対して何も目標を持たず、その日その日を赴くままに暮らしていけ」とは、たとえば少なくとも私は自分の子どもに対しては言えない。
この記事のタイミングで、ここの記事の切り取り方は、意図的さが強すぎるけれど、キャッチーなフレーズに象徴をさせて「こんなもんでしょう?印象としては」はかなってるけど、ちょっと卑怯かな。
肉にも骨にも達する前の、皮くらいを擦過傷で傷つけた程度の出血で、主体な話を印象させるのは引用元にやや失礼にも感じるのは、この記事自体がアプローチしようとしてる部分には仏教にある程度の答えが備わってるのに、撒き餌でしか使えてない不甲斐なさをスピンみたいに感じるからです。
この作家さんなりのメソッドに誘導までが意図であるなら、読者もそれで気が済むのなら、それでもいいかもしれない。タイパとか日常使いする人にはこれでいい喧伝かも知れないけれど、テーラワーダあたりにはこの答えが随分出てるんだけどなあ・・・惜しい。