リスクコントロール | アメブロなpandaheavenブログ

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最近漫画の先生始めました。
好評です☆

写真を撮ったり映画を見たり。でもやっぱり普通が一番!
みんなも無理しないでね!

(これは数年前のエッセイです)

 

「マネー資本主義」という番組がNHKでやってました。

サブプライム問題とかいう全世界を巻き込むとんでもない事態だったのに、なんとも得体の知れない状態のまま名前だけ先行してる問題を、分かりやすく解説してくれてた。

かなり大ざっぱに言うと「お金の貸し借りはどうしてもお金を返さない人が出てくる。
でもほとんどの人は返してくれる。

 

だから『なかなか返さない人』の部分だけをセパレートにしちゃいましょう。そうすれば銀行はほとんど『うまくいく』でしょう?

怖い部分は投資家さんに預かってもらいましょうよ。もちろん投資家さんに預かってもらう見返りに『預かり料』を払うことにしましょう。なんにも起きなけりゃそれでいいよね?
なにか起こった時のために『預かり料』でかんべんなさいよ

そんな仕組みらしい。
アメリカで「金融工学」とかいう分野があるそうです。物理で培ってきた数学的数式を実際のリアルな世の中に適用してみる分野らしいです。頭がいい連中です。
彼等がやることは「実際のお金を返さない人たちが、貸した額面の内、どのくらいの確率で出てくるのか?」という分析でした。

リスク部分だけをよりわけて、集めためて、「証券化」という得体の知れない状態に交換して、リスキーなところだけを投資家に渡すんですって。

これが随分うまみのある商売だったようで、当初銀行が「リスク減らし」ではじめたものが、投資家の側が「もっとリスキーな案件をよこせ。もっとリスクがあったってお金出すぜー」と鼻息を荒くして銀行にすごんできて、止められなくなってきた、というのが事態を悪い方向に持って行ったそうです。もう誰も止められなくなっていた、と。

あくまでも「確率」でリスクをはじき出していたので「大丈夫だったリスク」がいつのまにやら爆弾たっぷりの「超リスク案件」に変わっていることに気付いたころにはもう恐慌ははじまっちゃった、そうです。
ひどいね。

でもね、「金融工学」も、その発端は「リスク」におびえないでなるべく安心してより多くの額面をやりとりできるように仕組みを作る、というけっこう志は高いものだったようです。
 

「お金を貸しても、返すか返さないか分かんない」という曖昧な疑いからお金が借りれないでいた人たちにも、お金が行き届くようにはなったんだって。
だからアメリカでは一般人が2件も3件も家を買うようになったって。
お金が借りれるから。

借りれない人が静かに持っていた「返さない可能性、ゆえにお金を借りれません」という金融の基本法則を撃ち破ることで、サブプライムってやつは大いにお金を貸し借りするようになったんだけど、その基本法則が守ってくれていた「私はお金返せないから借りれないよなあ」という、一種の「ストッパー」も無分別に解除してしまった。
これが大いに問題だったようです。

「お金を返せないかも知れない人にも貸す」というコンセプトを知り、感じたのは「人類は男女を生みわけることができる」ところまできた科学のこわさでした。
「臓器の売買」にも同じ怖さを感じます。科学の発展で「自分の希望」が叶えるだけかなってきた時に、お金さえあればかなってしまうことばかりが増え、以前なら「無理だからあきらめよう」としたものが、あきらめられなくなってしまった。
 

なまじ「なんとかなる」ことが分かってしまうと、今度は思い通りにならないと「なんで自分は思い通りにならない側の人間なんだ」という劣等感すら覚えます。
「世の中じゃ自分と同じ境遇であるのに、うまくできるやつもいるっていうのに」

そんな感情ばかり強化されます。

あきらめること、がどんどん難しくなる。
いっそ、最初から知らないでいたら、「あきらめる」で済んだのにね。

なまじ「知って」いるから、「できない」と分かると、「怒り」が生まれる。

と、したらさ、
「どんどん知るほど、不幸に感じられる事態も増える」ってことのように思えてこない?

ま、「知ってたら、少なくとも、選ぶことはできる」くらいの間合いでいられればまだいいんだけれどね。そんなもんじゃおさまんないんだよね、人の業は。

「リスク」「危険」「危機」を予感することで、かろうじて押しとどめてきた「人間側の欲求」を大放出することは、幸せにつながらないような気がする。
たとえこれが上手にリスクコントロールできたとしても、それは「悩める項目を増やす」だけに過ぎず、生きにくさをまたひとしお厚くする行為に自ら加担するだけではないでしょうか。

原子力みたいなもんよね。
「核爆弾」にもなるけど、放射性物質が残るけど、電気はたんまり作れるよ。
リスクをコントロールしてるからね!
 

大量に電気作っちゃうから使っちゃうじゃん。節電なんて考えないじゃん。
取り返しのつかないリスクをじゃんじゃん生み出しておいて、利便性をさんざん食い散らかして、コントロールできてるんで大丈夫、ってリスク部分をじゃんじゃん頻度を上げて、リスクじゃんじゃん、便利じゃんじゃん、リスクじゃんじゃん、便利じゃんじゃん・・・・・馬鹿みたいな堂々回りを「発展」と呼べるのかなあ。

便利、を維持するために、随分とリスクを隠した生き方を、人はしているような気がしてるんです。
 

生きやすい、ために、知らないうちにせよ、抱え持つことになった「リスクコントロール」まで、本当に私達は支持してるといえるんだろうか。
なんだかまるで「だまし討ち」みたいに幸せを提供されていることに、黙って、知らずに加担し続ける方法でいいんだろうか、と考えちゃいます。

リスク、を直視しないことで幸せになろう~!というのは、そののっけから「間違ってる」はずです。いかに天才が「金融工学」で「お金なくても貸せるよー、借りれるよー」の世界を作ってくれたとしても、おかしなことに向かいます。言葉は悪いけど「だまし討ち」だと私はとります。