わきまえろって、自民党の先生だったと思うんだけど、昔言い放ったことありましたよね?
あの時、なんて高圧的な語彙として「わきまえる」を使うのかと憤ったのを思い出します。
わきまえは、自身が自身の鍛錬や礼節にのっとった自発に立脚されるべきで、そこに尊さと抑制の卓越が光る所作の名です。それを自分以外の他者に強い、抑制の手段に用いるとは、なんたることかと残念さがひどく高く積みあがりました。
制圧の意図みたいなのでこの言葉が放たれると、このニュアンスを生んだ和語もないがしろにされてるみたいな心地の悪さを覚えたのでした。
すべからく、思案のありようは人の数だけありますけれど、それを他者をなじるために使ってはどうにも心地が悪いのです。
わきまえたいひとが、わきまえるために、わきまえを試みる、までが本来です。
他者が頭ごなしに、そんな「高そうな・その実、自身の周囲に堀を掘って『そこよりは高い』手合いの位置」から叱責気取りで使うのは自重なさっていただきたい。