ある日のサンドイッチマンさんがラジオで言っていました。ご年配者・・・大雑把に50代後半以降の、まだ会社組織に所属してる人たちって、もう体も精神もぼろんぼろんなのに、それでも自身に鞭打って働いてたんだなあ、通勤してたんだなあって、自身が「その年令」に達して見渡した景色は、なっかなかの忍耐の世界だったと。
体の節々が痛くなるだなんて・・・それが理由もなく痛さが続いてる。
目も霞んだり、よく見えなくなってくる。耳だって上手く聞き取れない音声域が出てくる。
なのに社会の第一線に立ってる、それだけがもうすごいって。
ご年配の方々は、みなそう口にしないまま、いや、してたかもしれないけど、他の誰にも耳に届くことなく、黙々と、悲壮な顔つきで頑張ってるのだと。
🐼もよく分かるようになってきた。
悲しいことやつらいことは去ったりせず、並行して走ってたりする。
解決するかどうかも知れない。
一緒に過ごす人は大丈夫かと心配が絶えない。
誰とも過ごせぬ孤独を耐えぬけるのかと、見えぬ未来に不安が渡っていく。
あればあるくるしみが、
なけりゃないくるしみが、ある。
そーゆー、互いにいわずもがなのうちを、「お前もそうか」「こっちもそうだ」とアイコンタクトの内に察し合い、声もかけないまま、また互いの道なりに歩を進めていく。
どうやらそれでいいらしい。
決着と解決以外の悶々も、そのまま、悶々だ。
節々は痛い、見知った人が苦しんでるのがつらい、自分も大丈夫とは言えない。
けれど進むんだ。
けれど歩くんだ。
こんな当たり前が、私たちのいわずもがな、なんだな。