● 「世界はどこまでも自分自身の延長」 | アメブロなpandaheavenブログ

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問題は解決するな KAN:著

第3章「メイドイン地球」の自分で生きる より引用。

循環において大切なのは、相手を知ろうとすることではありません。
「相手と出会ったときの自分の変化」を知ることです。
相手との出会いで変わるものがあるとすれば、それは自分自身だけだからです。

(中略)


世界は、あくまでも「自分自身の認識」であり、「自分自身の延長」です。

(中略)

だから「なんとかしよう」とするのではなく、自分の認識を受け入れればいい。

(中略)

相手や世界を受け入れて、「あきらめる」。そういう言い方もできるでしょう。

最後の一文を素直にそうだなと思えるかどうかがひとつの瀬戸際かもしれません。

「あきらめる」という語感ごときで抵抗を覚えるとしたら、その向こうに鎮座する宝珠を見失う事が釣り合わないのです。

 

あきらめる、という言葉を経由して「状態」の話をしたいだけであって、方便であると本文も意図的に「そういう言い方も」と註釈されてるのを見過ごしてはもったいないのです。

 

要は「あきらめろ」ではなく、「あきらめてみたら乗り越えられてた先」を見やれるのと同じ事にたどり着きなさい、が真意です。

 

相手、がいるのではなく一筋の光も脳には届かないのと同じで、自分の身体感覚器官が感知し、神経なり脳内に渡された時点で、自らの「解釈」として手心が加えられる行程が練り込まれてます。ここなんです。

 

解釈に色味がつき、偏向してるんです。

ゆえに、引用元は「そこで本当に起こってる変化自体」だけにフォーカスしなさいよと仰ってる。

 

「自分は自分だ」などという幼稚な知見に済ませず、その「自分」すら感情や知識にスピンさせられて偏向を混ぜ込ませてる事実に目を向けなさい、と。

 

「観たいように観とく」をするのが人間であり、そこに正確な観察をする目と見識の方に足を置きなさい、が本意の方といえます。

 


実際ね、本当にそれをするとね、感慨なんか湧かないんですよ。状態、を観てるだけになって、「解釈」は入り込む余地がない、プレーンなありようでしかないんです。

 

砂、をみてなにか思ったりしませんよね?それと一緒です。

それはそれ、という見え方以上に成らんのが本来なんです。

そーゆーことをいっておるのです、ここは。