NHKプロフェッショナル・仕事の流儀 宮崎駿のすべて 「ポニョ」までの軌跡より
「おじさんたち(映画会社お偉いさん)がこちらの出した企画を通さなかったからと言って、それを恨みの思っていると、つまんないことになりますから、人生は。」
宮崎監督はイメージボードを描きながら、全体のストーリーを完成させないまま、生ものを扱うように作品を「育てて」いた。
これは映画のマキノ雅弘監督が現場で群衆シーンなどを生き生きと描くときに必ずしもシナリオ偏重をせず、アドリブであったり、現場の空気であったりするものを取り入れ、生ものとして、旬さや鮮度を持った人間を表現することと同じだ。
押井監督という人も「今」の空気を文章や歌でなく「映画」ゆえに伝えられるようにある種計画性を持ちながらも行き着く目的に「人間臭さ」をつかもうとすることと同じだと思う。
(そしてかの監督は人生はつらいものだ、と言った。
それは上座仏教ですでに知られ続けてきたフレーズのひとつでもある。
発明品ではなく、すでにあるものへの再認識のような気がする)
手塚先生にせよ宮崎監督にせよ押井監督にせよ、感じるのは「あまり他人をほめたくない」という空気。
作り手のギリギリのところに「居させる」ためなのか、他人を上手にほめてるシーンにほとんどメディアを通して感じ受けられない。自分が生み出すものへの精一杯、であればそれもいい。
宮崎監督が言う表題の「挫折しない・・・人に運命をゆだねない・・・・」というのは信念なのだと思う。
周りの放ってくる「理由」っぽいもので、自分を合点させたり、がっかりさせたりなんかしてないんでいいんだからね、っていうものと、他人を理由にさせて、こっちの態度を決めるだなんていう「自分への堕落」を許す口実なんて持たない方がいいよってことと、「外からの理由でがっかりしたくない」という気持ちが幾重にも重なった複雑な言葉なんだと思う。
かつてコント55号の欽ちゃんちゃんが、コメディアンとして成功したことをお母さんに喜んでもらおうと伝えたら「夜にキチンと帰ってくる仕事をなさい」っぽいことを言われてしまい、心底悲しかったってテレビで言ってたけど、宮崎監督もナウシカで成功する前に、一番認めてほしかったお母さんを亡くされていたようで、昔っからずっと持ってた才能が花開くときに、それを一番認めて欲しかった人に認めてもらえなかったり、他界されていたりする、その不完全で着陸に失敗したかのような、こころの切れっ端のようなものが、「他人を喜ばせたい」の原動力のひとつであることを、私たちは静かに知っていたい。
自分が元気で、他人も喜ばせてあげたいって気持ちだけではきっとなにか足りないのだ。
「挫折しない・・・人に運命をゆだねない・・・・」
その通りだ。
前向きでも後ろ向きでも、どっちでもいいから、この言葉のまま腑に落とそう。