自分が知らないだけかも、ってひるまないで済ませる時間へ、早めに達しておくこと | アメブロなpandaheavenブログ

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最近漫画の先生始めました。
好評です☆

写真を撮ったり映画を見たり。でもやっぱり普通が一番!
みんなも無理しないでね!

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東畑 僕は臨床心理士なので、「心」についていつも考えて生きているのですが、ある時、学生から「心とは何か、一言で教えてくれ」と言われて、うまく答えられなかったんです。養老さんは、「心とは何か」と訊かれたら、何と答えますか?

 

 養老 そうですか。話が壊れちゃうといけないんですけど、僕は本を書いたりする時には、「心」という言葉は使わないんです。使わないというよりも、使えない。今、言われたように心には定義がないから。

こういうたぐいの断り、正確、有無の確認、大事です。

ウヤムヤに始めちゃった後で、前提の方からつくがえり直し、なんてなことになると、話してた最初からおかしくもなったりもするから。

養老 今日の話の腰を折ろうとしているわけではないのですが、「心」とは何か、やっぱり僕には分からない

確か心理学者のヴィラヤヌル・ラマチャンドランが、心の機能を20以上に分類していましたね。そのくらい分ければ分かるだろうと。

でも、部分が分かったら、全体が分かるかというと、たぶん逆で、部分が分かるほど、全体は分からなくなる。ものを顕微鏡で100倍にして見たら、見たいものは拡大されて、よく見えるんだけど、見ている対象が置かれている環境も100倍に拡大するわけです。それと同じです。

養老先生にしても、スマナサーラ師を介したブッダの言質にしても、正体がそもそもないものを解説に走ったりせず、「分からぬ」とちゃんと済ませてる。

 

人の間で、曖昧模糊(あいまいもこ)とした観念や思い込みだけで、ふんわりふわふわ「話せてて盛り上がってきちゃった❤」的輪郭同士には、根っこがない。正体もない。あったことはいまだかつてない。なのに話の接穂にひょいと出てきて、さも当然な顔つきで鎮座おわす。

 

神にしろ龍にしろ、麒麟にしろ、観念上のなにかは、話す、ごく最初に「ふんわりしだす」前提が互いに共有できてるかが肝心にもなる、が本来なのです。

東畑 なるほど。『こころ』を読んでいると、まさに人の「心」が「分からない」ことがテーマになっています。語り手の「私」は「先生」が何を考えているか分からない。先生は先生で、周りの人の気持ちが分からない。

 養老 相手の気持ちについて、僕はある時から考えないことにしたような気がします。分からなくていいし、分かるわけがないだろうと

養老先生ってさ、ざっくばらんに「分かってあげない」を言える人だよね。

「わかんないんだもん」という正確を、しまわない人だよね。話がわかりやすいのはここに立ってるからだと思う。

「そーゆー人の話、ってんなら、その気で聞こうか」と伺う側にすらある種の安心が芽生えてる。

ここがあるか・ないか、で話せる話、聞ける話は質が変わるからね。重要なの。

東畑 そうなんですか(笑)。でも、みんな人の気持ちが分かりたくて困ってますよね。

養老 人の気持ちなんか分かるわけがないと、決めちゃえば楽になりますよ。

東畑 心は要らない?

養老 そうです。

ほらね。

がぜん、楽になってると思わない?

前提が狂ってんだから、ってひけらかしもせず、余計な説明や解釈・講釈を聞かずに済ませられる。端的で利便にも富む。いいことづくめじゃない?

養老 僕もほぼ嘘だと思う。統計はマクロの問題を解決するには、有効かもしれないけど、個人には使えないんです。たとえば、僕は20歳からタバコを吸っていて、統計的にはタバコは死亡率が高いというけど、僕も僕の周りも「誰も死んでないよ」という話になりかねない。でも、統計で物事を考えると、タバコは悪いものであり、やめるべきものになってしまう。

 

東畑 確率でものを考えると、「心」は消えてしまうんです。タバコは統計的に身体に悪い。だからやめるべきだ、以上、となると、吸うべきか、吸わざるべきかと迷い悩んでいる自分がバカみたいですからね(笑)。それはつまり、自由意志をはたらかせる「心」の場所が消える。

清々しいなあ。「正しい」としてる符丁の方を、さっさと捨てれる潔さ。たがいにそこをなじらないし、目配せひとつで「そこは、そう」で済ませられる良さ。無為に「仕立て上げる」ような面倒臭さも無用で実にいい。

東畑 最近、アウグスティヌスの『告白』を読んでいたのですが、そこではアウグスティヌスがマニ教徒からキリスト教徒に改宗する経緯が語られています。

マニ教は善悪二元論ですから、人間が悪をなすのは、悪の力に唆(そそのか)されたからで、その原因は人間にはない。

でも、「神は世界に悪を作らない」というキリスト教においては、人間が罪を犯す原因は、神と世界の側ではなく、人間の側にあります。

アウグスティヌスは神にこれまでの自分の行いを告白することで「より善く生きる」ことを選択していける自由意志を発見していきます。そういう彷徨える感じに、「心」があるように思えるんです。

 

養老 そういうのを聞いていると、アウグスティヌスにしても、漱石にしても、僕は「それはあんたの話でしょう」と思ってしまうんです。

 

東畑 なんと、徹底してますね(笑)。

 

養老 「それであんたが気持ちよくなれば、それでけっこうです」と言いたくなってしまう。

 

東畑 なるほど。そうすると、心について考える必要がなくなってくるという話ですか(笑)。

ね?

神について話し出せば、どこまでも類例の例示をふんだんに間断なく適うでしょうがね、そこは長らく話して過ごしとく一ではない気が🐼もします。おとぎ話のようなのです。の、割に得るものが冗長で不正確。有事の際に「人の心をとどまらせかねない」弊害の方を強く感じます。

 

潔さ、っていうものは一通りは見渡した人が持てる感慨であって、そうでもないと「自分がただ知らなかっただけで、言い張れるような自身にはなってなさ」が終始つきまとっちゃう。

 

違いますね。

 

「そんなの、ないよ」を早々にたどり着いておけば、残ってる時間を「迷い」に費やさないで、別のリソースに振り向けられる。

 

ないもんは、ないのよ。

古来からの伝承のうちでも、正しい者はそういってくださってる。

まぁ、そこすら「見極めてられていられたか?」を疑い出せなくもないからね。

そこはその人の生き方のセンスよ。

 

センス良く生きな。

で、ないと、長丁場で生き損じるままを、随分盗られるからね。生きるってのは、さ。