たった一人の加勢の声が、あったか・なかったか・で、人生の以後に禍根を残しかねないほどの刹那に、「居合わせてくれてた」だけで事態がいい方向に転ぶことがあります。
返せば、その・ひと支えがなかったばかりに、押し通すべきだったと悔やむに悔やみきれなさは、痛烈に記憶されます。
「なにかあったらどうするの」
なるものは、他者の存亡に関わる業務に就く人らは、常々その判断に迫られっぱなしであり、中途のなにかでしくじって、ごたつけるほど暇ではないので、どうしても「ことなかれ」に走りがちの心象になる。
ゆえに、個人の側がそれにほだされるのを見越すキラーフレーズ、いいまわしを常備してるし、有無を言わせる余地を相手に与えなくしようとしがちになる。
その見極めは、個人単位で「その道のプロに楯突いて・もぎとる」を決意せねばならないし、言い募りたいほうだって冷静でもない。だって時間制約のある要望だから、この機を逃せば願いを叶えるという孝行はもはや叶わなくなるのだから。
それだけに、こうした局面で英断にも似た、りんとした「患者サイドへの心くばり」が施設従事者の方から助力されるのは、百人力だし、あってほしい姿でもある。
わたしたちの毎日には、こういった見えにくいけれど、小さくとも寄り添う心根のある人らがいてくれるからこそ、安心のうちに過ごせてる。
こういう見えにくいところにも感謝を伝える方法がほしいな。ありがとうってたくさん伝えたいよ。日陰でおこたりなくしてくれる人が、一番素敵なんです。見えないけれど、ありがとう。たくさんたくさんありがとう。