渇愛から悲しみが生まれ、
— スマナサーラ長老の著書から言葉を伝えます (@Samgha0408) January 11, 2024
渇愛から恐怖が生まれる。
渇愛から自由になった者に、悲しみは存在しない。
どうして恐怖があろう。
(ダンマパダ216)
『法句経一日一悟』より
こういったワンフレーズが、どこかのなにかの、きっと神々しいなにかであると、さっさと自分の心の神棚に置いて済ませちゃう人は愚かだと思います。
これは高みに置いて飾って崇めるなにかではなく、日常使いに頻繁に使いこなす着想であって、形をそのまま大切にしとくもんじゃないんです。
この言葉の出自が、どんな困難や切望からギリギリの線で生まれ落ちたものかを慮(おもんばか)れれば、自身が困難に陥る寸ででも踏みとどまれもするし、これに似通う誰かの困難を軽微に済ませるだけの知見も得られます。
それは食うとか寝るとかと同じ生活線の上にあってこその価値で、常々応用の効く根幹っぷりなんですから、自身の生きざまにも他者の困惑にも速攻の役割を担えます。
それはやっぱり自身が常々要るんだって思ってる人にしか探し始めさせないし、見つけれたって宿りかねる人も出てきちゃいます。あっても、なくても、にし易いパーツではあります。
その繊細に耐えうる人ですか?
人に渡せると、元気出ますけど、要りませんか?
ぼかぁ、欲しいなあ。