ピロウトークス:信仰の捉え方 | アメブロなpandaheavenブログ

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最近漫画の先生始めました。
好評です☆

写真を撮ったり映画を見たり。でもやっぱり普通が一番!
みんなも無理しないでね!

相棒と話してて、そのときのテーマが「信仰」でした。

なにかだけを信じなさい、ひとつ事以外を信じてはいけません。私だけに依存をしなさい。・・・これらを強いてくるものを、相棒も私もてんで受け付けれないのでした。

 

生きていくヨスガに、「自分以外」を求めたがる心象はわかります。すがりたくなりますよね。困ったときは特に。でも、そういう人らを「困ってる時」めがけて信仰を要求するのは卑怯にも感じます。

 

相棒と一致してるのは、「信じ切るのは自分、として、そこ発祥で生きて過ごしておくこと」でした。他者や、よその存在を、生きる上でベースにしだすと、その場その場では都合が良くても、依存が礎にありますから、ここぞってときには「信じきれるかどうか」などというものさしに結果が左右されだします。

 

🐼も相棒も「本当に死にかけた」があるので、その瀬戸際はなにかを考えてる時間でもなかったし、信仰に思念がいくでもなく、その刹那はただ「自分がどうする」だけで、本当に簡単に左右される進路を、急激に迫られるだけでした。

 

生きること自体に執着を自身が持ててるかどうか?を量られる瀬戸際は、存外お軽いタッチで近寄ってきますし、執着すれば苦しく、投げ出せば否応のない途絶があるだけです。

 

苦しくて、悲しくて、なんとかしたい、ってのはどこかまだなにか余力があって、感じる余地がその人に宿れてるんです。そこにある「選びようがある」ありさまに、損得で選ぶか、なりゆきで選ぶかは、どっちにしても「自分がそう選ぶ」で駒を進められます。

でも本当の選択は、そんな余力のない否応のなさで迫ります。

そうでしかない、という進み方の中に翻弄されます。

 

川の濁流には逆らいようがあるうちは、自身の選択が結果を変えられるでしょう。

逆らいようがないほどの激流には、流されておくほかはないのです。

意志が強いかどうか?に左右できる項目は、さほど多くはないものです。

 

運命論者でもないですよ?

目先のひとつに大事に心砕いて生きてるってことでいいんです。

 

計画云々は、計画を目論んだ時点で孕(はら)んだ苦難を背負い込むって決めたわけです。そこで得るメリットとやらは、果たして総括して見返す際に、割に合わないほどの我慢と辛抱で、存外とんとんってことはあるものです。自作自演の開演終演はプラスで終わるとは限らんのです。

 

余計なものもたくさん周囲に侍(はべ)らせ、迷ってたり決めれなさもふんだんに許されるところには、人って素敵な心持ちで過ごせるでしょう?安堵ってものが先にある人へ、警戒を覚える人はいないものです。その豊穣が根付いてるところが、生きてって過ごしやすいとこです。

 

🐼と相棒に関して、そういった意味でのゆるさは必須項目なんです。そうなると、あんまり信仰はないほうが生きやすいです。もちろん、それについて知っておくことは怠りませんが、そこに立脚するのは人ごとに自在であればいいとだけ思う方です。