「ともに生きる」の実践 軽く言える言葉じゃない | アメブロなpandaheavenブログ

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最近漫画の先生始めました。
好評です☆

写真を撮ったり映画を見たり。でもやっぱり普通が一番!
みんなも無理しないでね!

(これは数年前のエッセイです)

 

共に生きる。
響きはとてもいい。共存共栄。共に生きて共に栄える。
日本人はとっても好きな言葉だろう。流れに棹(さお)さす訳ではないが南直哉さんが著書で「本当の意味において共に生きるというのなら、死するときもまた共にある、というのが本当ではないか」という事を書かれていて、ああ、本当だ。その通りだって思いました。

ああ、もう、そこまで思い詰めなくたって、っていう方が大勢でしょう。
いいところだけをきちんと受け止めて、前向きになれる部分だけを抜粋したらば健全であって、それでいいじゃないですか、と。

うん、そうね。便利よね。
幼いうちは、そういう教育もいいんでしょうね。物事の明るい面をみましょう、と。
年輪を重ねて、「ものごと」を体感し、覚えていく時に、あらゆる事柄に「いい面」と「悪い面」は併存していることが分かって来て、「剥がしようがない事象」と認知されてくると、ああ、片っぽうだけ押して参る、ってわけにもいかないわね、とだましようもなくなってくる訳です。

教えた通りに「物事の明るい面をみましょう」では行き詰まるのが「本来」です。

上述の「悪い面」だなんて、いってますけれど、「誰かにとって悪い面」でしかないわけなので、そもそもこの「区分け方」をさせてしまってる「考え方」のしつらえが、あんまりいいもんじゃないのです。

「清濁併せ持つ」しか、事象を捉える術はない。起こってる事は「あっていい事悪い事」から始まってるのではなく、良かろうと悪かろうと起こるんですから。

じゃあ、「やっちまったもん勝ち」かよ。「声の大きいもん勝ち」かよ!って短絡を起こる方もあるでしょうが、これもまた「見え方」が偏っているもんです。
因果の巡りみたいのがあるみたいで、「やっちまった」人には「やっちまった」ために引き返せなくなったものが生まれてます。「声を大きくまかり通せた」人には皆の前で押し通した手前、取り戻せなくなったものが、人知れず生じます。

「人生プラマイ・ゼロ」かよ?ってしぼんだ考え方に陥る必要もないです。
「なんにもねー」わけじゃなんで。プラスも味わえる「感情の幅」があったことで、その「幅分」の感情で、マイナスを感知できます。この感情の幅の狭い人は「おっきな喜び」は感知できませんが、「ちっさな悲しみ」もまた感知しません。


人の許容値は、人ごとに幅を自身にゆだねさせてて、「我慢できる手合い」までにしか機能しないように、自分を育ててます。嫌な事を十二分に味あわされた人には、へこめた分だけの「感度」がぐりぐり広げられてるだけの事です。

日本なんかに住んでると、「ド派手に狂ったような天才」はいませんが、「底なしの悪魔のような人」も現出しにくくなってます。それが大陸の方にいくと「もンのすげー超天才!」から「ズンドコな救いようのない無駄骨野郎」まで幅広くそろってるだけの事です。「どっちがいい」ってもんじゃなく、「その地域で許容される幅」が違うだけの事です。

それがゆえに、ネットなどの見出しにさも当然の風に「若く見せたい」だとか「ポジティブ思考になるには」だとか「40、50代からの転職」「未経験OK」「コスパ最高!」などなどの「掴みのコピー」を見かけるたびに、「ンムー、片方だけ強調してるなあ」と覚めてしまうのです。

「強調」しちゃう事柄があるってことは、「隠して示してない」面が同じ量分だけ仕込めてないと、高さとして盛り上がらないのです。

この「共に生きる」をテーマに持って来た理由なんですが、今ちまたに流行ってる新型コロナウィルスの伝染が発端です。
中国で大きく発症し、世界に広く流布されてしまいました。国境は封鎖され、グローバル経済を唄った仕組みは激しく損傷しています。「グローバル」なんだから人も物流も、そりゃワールドワイドです。「共に生きた」ので「共に死す」かと思いきや、だれもそんな覚悟なんかしてない訳です。そういう「厳密さは要らない」と平然と、当たり前に誰もが思っています。
 

じゃあイスラエルのキブツよろしく、人類は自分の生活圏内だけの自律を担保するだけで分散管理されてれば、「被害は最小で押さえ込めた」となるでしょうか。
 

武漢という地域は封鎖されましたが、そこの人たちは「死んでもいい」わけじゃないですよね?誰も罹患したくなんかなかったし、なにより「新型コロナウィルス」なんてものが流行るだなんて、ほんの1ヶ月前に知ってたひとなんかほとんどいませんでしたよね。

早期に気づいた中国の眼科医は警鐘を発したところで、現地の警察権力から非難され罰せられ、自らも発症し、亡くなられました。これって中国だからって言い切れます?
「デマの拡散を恐れる地域のコミュニティ」が強いほど、同じ事件は世界のどこでも起こる土壌を備えています。ないとはいわせません。

「個人の発言を封じる事のできる規模程度のコミュニティ」にあっては、「いざという時」にほど、「コミュニティの維持」を「害する個人」を押さえ込めるだけの権力構造があるからこそ、平時に強固なのです。コミュニティに属する者を守るっていうふれこみを実践できるだけの「まとまり」を担保するために、「コミュニティのみんなを守るためには、個人の言い分は控える」押さえ込みも、また表裏一体の必要悪です。この力は日本にあって、殊更地方の田舎では顕著で透明な結束です。

「おもてなし」ができるからこそ、「おもてなしを維持させる無言の努力義務」が生じていて、維持者たちは強い意志でそれを維持します。打ち崩しにかかってくる者を許しません。阻害し、追放します。

中国の新型コロナウィルス流布後の、大型病院に入院させられる人の中で、嫌だって言ってる人が居ると報道で知りました。

一旦入ったら、生きて出てこれらないっていう恐怖だそうです。

そこにいる人たちは一斉に「病原菌のキャリア、ないし予備軍」で集う訳です。

食料・衣料のそろいきっていない現状で、疲弊し、罹患し、亡くなられる恐怖は、だれにだって同じ不安を抱かせます。

仮に「罹患者を隔離」してるところに、自分の親族が居た時に、「かわいそうに」と無防備でいたわってあげられるひとはいません。防護服を着て、看病するのが精一杯でしょう。「共に生きる」はここまでが精一杯です。

 

真の意味で「その人と一緒に居てあげる」と、ウィルスは看病した者を罹患させ、「共に死す」ことで、「死ぬまで、共に生きた」という、本来の言葉の意味の無慈悲さをまっとうできます。
「共に生きる」って、重い言葉なんだよ。本当に。すさまじく重い言葉を、私は普段使いに軽く「フレーズ」にしてるのが、ちょっと怖いんです。

冒頭に言った南直哉(お坊さん・作家)さんがした解釈の方が正しい。正しいっていうか、本来の姿勢であり、軽々と言い放っておくような文言ではないと、あって欲しいのです。
「共に生きる」は「共に死す」、許容できた人が使う言葉だと思うのです。

武漢という街が封鎖されても、ウィルスは媒介されているようです。ウィルスそのものにいいも悪いもなく、「ただ生まれた」ウィルスが「人類には2%の致死率」の威力が故に撲滅を目指されます。誰も「かわいそうに」なんて言いません。

その中国に「共に生きる」覚悟で臨む国がどれだけあるでしょう。そういう局面なんですよ、この世界的な伝染は。
「入国を拒否する」は「そっちだけで死んでくれ」という正直です。
私は「一緒に死んでやろう」と推奨してるんじゃありません。隔離は当然です。

だからこそ「共に生きる」は尋常ならざる覚悟で、人が発する言葉であって欲しいんです。
「共に死なないで済むために、共に生きながらえさす工夫」が外野から相応の覚悟でなされる局面です。封鎖だけじゃなく、好転させる「共に生きる」は機能できるかが「まるで負の側面」の現状の光になるはず。

誰も死にたくない。こんな死に方、思ってもいなかったはず。一人でも多くの人が救われるように祈ります。

ワクチンも治療法もない今、「祈る」がひとつの「共に生きる」の術であることは、非力ではあるけれど、しないではいられない光。