テーラワーダ・名古屋初期仏教デー(2023/12/17)参加してみての箇条書き | アメブロなpandaheavenブログ

アメブロなpandaheavenブログ

最近漫画の先生始めました。
好評です☆

写真を撮ったり映画を見たり。でもやっぱり普通が一番!
みんなも無理しないでね!

image

スマナサーラ長老の術後の名古屋初期仏教デーに参加してみました。


日本ガイシホールの駐車場って、なんで毎回気を使っててもサイドミラー擦っちゃうんだろう?二度目なの、とほほ。

 

image

 

13時開演で🐼は読経〜法話パートのみの参加をさせていただきました。


まずもって、長老の声が術前より🐼には力強く聞こえ、お腹に力のこもる声の調子に安堵しました。本当に前回は「血管も見つけれない」などの弱さ含みな表現がありましたので、🐼よりも懇意で精力的な参加者には心配が絶えなかったはずで、今回の様子は実に心強く感じました。

 

読経の後、即、会場からの質問にお答えいただける流れとなり、当コラムではその詳細はYouTubeに譲るとしまして、🐼のメモよりの抜粋を記載するものとします。



🐼の意訳に誤認もあるやも知れませんが、いくつかの言い回しに、今生きづらい誰かに急ぎ役立つ気がして、載っけてみます。手前勝手容赦ください。

 

image

 

●「瞑想が10分で音を上げてしまうのですが?」

長老曰く、「正しくない、無理をして、本当の部分を理解しないで瞑想してる」との言い切り。

「生命は不幸になっていいわけないでしょ?」と言い含めてから、瞑想をいきんでやってるのは「特別ななにか」をやってるつもりでしょう?とただし、それでは「慈悲の妄想です」と会場に一笑いとってから「苦しんでいいわけないでしょ?」と喝破。

 

パレスティナ問題などでも人間を虫けらみたいに考えて位置させたことで屈強なはずの加害側も「苦しむ」羽目に陥っていると観察。

 

瞑想は呼吸をするようなレベルでやることが本来で、「あなたの呼吸は『何の教え』でそうしてるんですか?」と茶目っ気めいて解説。


呼吸なども「神の有無」などに関係なく、生命がするものであるように、欠かせないことのひとつとして、他の生命も慈しむつもりで瞑想なさいと解説。


image

 

●「自我は錯覚」なる観念が理解し難い。

長老曰く「あなたは自分でもう答えをもってるものを私に聞いてきている」と質問者に指摘。

現状囲っている「自分なりの答え」をまず忘れなさいとアドバイス。

 

物事は自分自身の「好き・嫌い」などで判断の拠り所とせずに、世の事柄はすべからく「好きでも嫌いでも」顕れるのなのですから「因果法則」で見るのが本来と説明。

 

津波を恐れる人がより好んで海の近くに家を建て、被害に遭いやすいところにみすみす怖がることをあじわうかのようなもので、津波なる「自然現象」が被害を及ぼす地域や時節を慮れば、それは事前に回避のできるものであるし、自然現象その事自体が「自分が好きか嫌いか」で存在の可否を変えるものでもないと指摘。

 

「火星に酸素や水がないよぅ」などと怖がるようなもので、世の中の現象は個々人の「好き嫌い」でそもそも生まれでてないし、成り立ってもいない。

 

長老ご自身が、今朝東京を発って名古屋に来てみればぐっと寒いことを「こちらに来ていきなり冬!体、慣れてない」からといって、冬を憎むことはないし、なくなればいいものと認識を持ついわれもないと説明。

 

個人の要望を自然現象に当て込み始めるからおかしくなる。

個人で「希望」というものさしであてがって測るから誤るのであって、それは「宇宙の法則」の方を相当バカにしてるふるまいである、と。

 

人が200歳まで元気で健康で生きてやるんだ!と勇んで決意表明したところで、土台無駄なわけで、「個人の希望」には人生は結構引っかかってくるものなのです、ゆえに、ここで悩む必要はないとの話。

 

「私の希望」で地球の自転は変化を見せたりしないのと一緒で、物事の成り行きは因果法則の通りであるだけ。

 

某・宗教家の威勢のいい方が、某お経フレーズを108回諳んじて挙げ句「どうでぃ、私のパワーは!」と勇んで見せてきたときは殴りたくなったと。

なんであたしはこんなアホたちと活動しなくちゃいけないのかと、きっと私の過去生が悪かったのだと冗談めかして解説。

 

自分自身の思考パターンなるものも、これもまた因果法則である。


ためしに「30秒で泣いてみせろ」なる命令が下ってきたにしても、これっぱかしも人は自身を誘導できず、結局自分の心すらも役に立てれてない。

 

極端な例示で「子供を車で轢いたとしよう。『あぁ!面白い!』って言えますか?不可能でしょう?写メしてアップロードしますか?できやしませんよ」と。


これも因果法則の内です。


怯えるでしょう?心臓がバクバクしてるでしょう?頭の中パニックで爆発してるでしょう?と。

 

ひたすらに続く自身の「希望・希望・希望・願望・・・」を何故「病気」と思えないのか?


起こることは起きたで「別に」とすませばいいのであって、「そうである」ことはおかしくはない。


雨や地震など「起きてほしくない」・・は「自我」だと説明。


因果律がわかってない。

そんな阿呆な怯え方してると、10倍くらいの津波がその人に来るよ、とも。

 

体の中に癌がある・・はある意味自然の流れで捨て置けば良い。病院で先生の指示に従えばいい。


「私に限って!」とか「アレコレしたかった!」と悩みだすが、そういうのは「自我の錯覚」。


錯覚は心があるがゆえに起こる。そしてその心一つすらも「希望通り」などではない。

 

例え話で「夜に寿司が食いたい」ひとつにしたって、「お金』「寿司屋が近くに」「席が空いてる」などの「因果」が揃っててこその成果である。因果が揃っただけ。


つまり手持ちのお金が少なけりゃ、寿司屋でなくスーパーで700円、1000円のパック詰めを買って済ませるわけで。

 

「因果法則」は複数揃っててこそうまくいく仕上がりになる。


意志なるものは瞬間瞬間変わるものなので、自我でもない。

意志=自我、は錯覚である、と。

 

「生き(続けて)ていたい」、というとてつもない希望から出るのが自我

存在力。

 

人の持つ「生きていたい」ではうまくいかない。

すべからく生命は死ぬ、がある。

必ず「壊れる」ようになっている。


老いる事、死ぬこと、病に遭うこと、などは苦痛ではあるもののむしろそれは「生きてる証拠」であり、これらを外した「生きる」などというのは成り立たない

 

生きていたい、は死にたい、に同じ。


毎日病んでいきたい、と一緒であり、それらはセットなのである。


現実を見ない、見えないように目隠しをする、その目隠しこそ「自我」である。

 

ないものをある、あるとするのは頭がどうかしているのです。

生きてるってことは、そんなに美しいことではない。

生まれてから死ぬまで泣いて過ごすところです。

 

『次の休みの日にこれをする』などというプランニングは、苦しむプランを組んでるようなものです。

 

これらの放言をして「スマナサーラが間違っている」としてくるのが自我である。

自我は「なくすためのもん」じゃない。そもそも、ない、のだから。

 

自我がなくたって太陽は位置して回ってるし、地球だって行儀よく回っている。

春には自我がなくたって花がちゃんと咲いてる。

 

自我があるから希望が出てくる。

自然法則に逆らって発生している。←それで悩むんでしょう?

 

生きて過ごすが苦であるために、自我が要るんです。

長老ご自身の体調も込みで、齢70にもなれば聞こえない、歩けない、視力が1/4しかなくて見えないなど、楽しい訳がない、とした上で、苦労、悩みは「希望」がないとできてこない。

ひとつ駄目でも続けざまに10個くらい希望を作る、全滅する、100個作る・・・つまり「100倍苦しくなる」。

 

「人は死んでも魂は死なない・・」などと標榜するフレーズをくだらないこと、と一刀両断されてました。

自我がなくても、人は生きていけます。(=目隠しがない、は、なんてことはないことです)気分爽快です。無意味に生きているんですから。

 

人間は自立した生命ではありません。プログラムされたものです。

 

image

 

●生命のうち、なぜ人間だけが破壊をするのか?

長老「なんででしょうね」

「生きること、が破壊行為だしね」

 

命があるためには、命あるために破壊することである。


我々人類の汚れは、微生物には食事でもあり、そうして水がきれいになってたりする。

言い換えれば、「破壊行動」が水をキレイにしてる、でもある。

 

生きることの壮絶な矛盾に気づくこと。

生きるのではなく、「脱する」に至れて成功と言える。

 

人間以外の命は、「1日」を単位としたプログラムで生きているのに、人間の欲望にはリミットがなさすぎる。食物を火にかけて、いじってたべてるのは本当は変なことなのだ。

 

長老の体験則上では、キノコ以外は全部食べれるそうです。

極論で言うなら食パンひとつ摂っちゃうと自然破壊の助長である。

 

出家をした身分の方は食事は托鉢、余り物、残った捨てるもの、を1食分として頂戴する生き方である、と。


食料食材を「明日の分」までもらうのは駄目であり、分けてとっておく、のもご法度。


残りは捨てる、だそうで、多くの方はそれにびっくりしますが、それが正しいそうです。

 

「明日の分まで残してる」から問題は起きている。

 

人の欲にはリミットが延々ない。

人の思考力がなんのためにあるのか、人間にはわかっていない。

欲が管理できない・レシピがない・怒りを満たすため・・・に能力を楽しんで費やしている。

 

思考力の余計部分は、「人格向上」のために使いなさい。生きるために要る脳の容量なら、うんと小さくて実は済む。人格の向上は道徳より開始される。

 

 

以上が🐼が聴講しながらメモを取ったものの箇条書きです。

厳密には後日アップされるでしょうユーチューブに詳細な息遣い込みの映像が出ますでしょうが、文字起こしのうちにいくらか心休まるのに役立つものもあるような気がしたので、急ぎアップしてみました。

 

みなさんの誰もに生きやすいなにかのピースが見つかりますように。

 

image