(これはウン十年以上前のエッセイです)
NHKで「俺たちに明日はない」「狼たちの午後」など名作上映が続いています。
二つのことを感じてまして、「名作は古くない」ってことと、「若い人は映画観れない環境にあるなあ」ってこと。
上記2作品はまったく古びない、といいますか、上等な作りでテレビの前を離れる気にならなかったのです。
気持ちが持っていかれてずっとその世界に注目が続く。
そういうのが「映画」であったのが「当たり前」の時代の作品は、迷いが少ない。
余計な思惑や作り手サイドの事情が現代のそれと違って、気になりにくいのです。
テレビで上映される映画の絶対数ってどうなんでしょうね?昔はお昼の奥様劇場で映画を無理矢理1時間半にカットしたような3流映画であっても、映画を見れていた時代がありました。
「駄目な作品」も見ることもできたし、「いい作品」もまた質にこだわらず出会えたような気がします。
少なくとも「駄作映画」はレンタルビデオ店でも出会えない時代です。
テレビは下手なクイズやバラエティより、古い映画流した方がよほどいいと思います。
雇用の問題として芸能人云々するより、健康だと思うのです。
そんなことつらつら考えていたら、若い人の「憧れ方」ってものが随分遠慮がちになってきてるなあって方に気持ちがいったのです。それはご年配者が色々手を打ってるせいでもあるなあと思うのでした。
年配者は若者に重かったりしてるんじゃないだろうかって。実際重いし。
そして自分が年を重ねてることにも気づき、若い人と比べれば、やはり「身に降りかかってくること」が全く質を変えてくることが分かる。
若いうちは結婚式だの愛だの恋だのだけれど、中年を越えれば家庭問題全般の子供のこと、相方のこと、そして父母のこと、将来設計のことと、いいも悪いも請け負わざる得ないものの質も重さも変質する。
迷っていられるのが「自分のこと」だったことから「周りの人のこと」の絶対頻度がグンとあがる。
そしてかつては悩んでいられたようなことも「それどころじゃない」のような心持ちになって自分が向き合うしかないものに漫然と向き合います。そこで試される「態度価値」。
いろんなことは起こるけれど、「どう迎え撃つか」の態度は、どんな事柄でも自分で決められる。
どう決めたかで、こんどはその後の「原因」となって、行き先や結果も変える。
言葉で書くのは容易だけれど、本当は幾つかの気後れや迷いで大いにうろたえながら進む。
・・・・とかね。
上述の映画2作品は、世間的には「強盗」の主人公たちの話。劇中では主人公たちは「自分たちは誰も傷つけるつもりはないのに」と正当性を口にする。
強盗はしてる。
基本的には身勝手な話である。
なのに映画を見ている人は、不思議と主人公の「世間の見え方」に共感する部分を覚える。
「俺たちに明日はない」なんか、もう音楽がバンジョーかきならしのコミック映画のようだ。
深刻なシーンにも優しく流れる音楽が、どこか優しい居心地を作る。そしてあのラストシーン。
「狼たちの午後」のアル・パチーノの目の醸してくる「若いのに・どこか老成し・どんよりともしてる」空気は、若い人に役立つなにかをちゃんと発している。世の中のいごこちなんかいいわきゃないんだ、っていう、捨て鉢寸前の、でもどこかで期待もさせろよ、っていうもどかしい怒りがある。
だから主人公は怒ってるけど、鈍くも光を放っている。本人は全くそれを自覚しないままに。
そのこぼれるような、しずくのような光の加減の量の本当さを、映画は人にギフトしてくる。
名作映画のありがたさをそこに見つけます。ちょっと、救われるんですよね。
深刻なふうでいて、軽妙にも見えて、襲いかかってくる現実に、ひとつひきだしを増やしてくれる作品で、もしかしたらこれからやってくるものに、ほんの一皮分くらいは、タフさを確保できるんじゃないかって、期待もしちゃうのです。でもまあ、映画は映画ですけどね。




