メンドー臭いという発想は、物事の成り行きに、なんとなく暗雲が垂れこめている時に出てくる気がします。すると僕は「ヤバクなる」と予知するんですかねえ、「止めとこォ」というふうになるのです。そんな時、不思議な快感が僕の中に起こります。メンドー臭いことには関わりたくないという僕の防衛本能なのかも知れませんが、この時の判断は、自分の潜在的な欲望から逃げたいと思っているのかも知れません。
目に見えにくく、理屈外からの諦観を受け入れて自身の人生に適用する。
多くの誰もが「自分によしな」なありようを、もがいてでも得ようとする間際で、横尾さんの仰ってるような所作はほとんどの人には不可解の領域だ。
あの芸術家だからそうできたんだとか、もって生まれた素養なのだと後天的な解説ができなくもないけれど、横尾さんの人生の分岐にかかるときの潔さは、実は私達がいますぐにでも「そうできる」あきらめであり、その刹那に「じゃあそうしますか」となれるかといえば、まずなれない
。
もう一息のガッツを集約させて、ここが踏ん張りどころだと鼓舞し、もう一息とせがみ、あおり、気色ばんで発奮を自身に課すのではありませんか?
でも横尾さんはそうしなかった。
それは一度きりのそれでなく、「ここぞ」の分岐の幾度でもその通例に準じた諦観でもって同じように応じていらっしゃいます。
メンドー臭いことを引き受けることで大きい収益が得られる場合もあります。むしろ、そのような魅力的な対象である場合が多々あるのです。
でも、人間関係がやゝこしくなって、金銭的にもまたメンドーなことが起こるかも知れない。その時、悪魔の囁きに従がってそのこと(仕事)を引き受けると、相手の自我と戦うことになりかねません。
もし、深入りしてしまうと、もう抜けられません。だから、「ヤバイかも?」と感じたら、いつでも手を引ける態勢にしています。ここで自我を主張すると、欲に振り廻されて、ヘトヘトになって、結果としては何の利益も得られません。
その場限りで踏ん張れても、遠巻きに「全部失う」突端の契機になってるやもしれんのです。手に入れた、なる誤解のような成果に、私達凡人は易易と魅了され、彼の書き表すところの「悪魔の囁き」「相手の自我と戦うことになりかねません」になっちゃってませんか?
皆様はこのような局面にぶつかるというようなことはありませんか? 生きていると目の前に利益がぶら下っていることも多いですが、そこでその利益を諦める引きの術が必要になってきます。
そういう意味では、僕は結果的に、「おいしい仕事」を捨ててきましたが、このおいしい仕事には時には罠があります。その罠から身を守ってきたとも思います。
実際は起きなかったこと、へ「対策として回避した」を言及できる人ってそうそういないはずです。横尾さんはそれをしたと書いてらっしゃる。
本来話しようのない、場合によっては詮無きことに感じさせかねないことを、ここまで上手に言語化してる。「罠」呼ばわりをして、しかも起こってもない先から回避してる。ここ、すごく大事。
いよいよ明日が受験という前夜、先生から「明日の受験は止めて郷里に帰りなさい」と宣告されてしまったのです。僕は「なんで?」とも聞かないで翌日、先生に東京駅まで送ってもらって帰郷してしまいました。
人生の前途にかかる局面でこの一見淡白な容認。短期的には人生の初旬でつまづきのようにも映るはずです。一般的には懸念し、残念がるはずです。でも彼はそれとは別の感慨がある。
「空中分解させないで済ませた」事実はいっときの自身の欲求を台無しにするほどだった。
色々諦めについて考えると、実に面白いなあと思えるのです。
そして、僕の場合は諦めによって、知らず知らずに人生を切り拓いてきたように思います。
あの時、諦めないで強引に目の前の大きい仕事に取り組んでいたら、今とは別のもっと、いい風景の見える場所に運ばれていったのかな、と思うことがありますが、一見おいしいけど実は悪魔、というものから逃がれてきた結果が今だと思えば、何も後悔することはありません。
目の前にぶら下っていたチャンスに従がっていたら、僕は多分、海外で現在と同じような美術家の仕事をやっていたのかも知れませんが、これが今生の僕に与えられた宿命だったんだと思えば、諦めるも何もない、これが自分だったんだと諦めるしかないと思っています。
軸足はみなさんと一緒でしたか?
言語が宗教観に親しいものだから、その時点で忌諱する人もいるかも知れないですけれど、それは正直もったいないと思います。この文章の意図はそもそもそこじゃないですから。つまらん誤解はこの際横に置いといてください。
今生の僕、とする「自分のあり方」へ俯瞰してる見渡し方。
私達って「できなくはない」けれどそうしませんよね。
「一見おいしいけど」で損なったものは、得たもので相殺する生き方になってやいませんか?
彼の文章に触れるごとに、世に言うあきらめってものが別のマイルストーンの使い方に見えて、舌を巻くのです。
そうか、安逸に目の前の失敗を嘆くよりも、ここで失敗しとくものだったのだとなるほどの生きざまが、このあとに見渡せる時がくる。
ケセラセラはあきらめの投げ出しではなく、積極的な放置の時間なる能動なのだと、小技に任せてビクビク生きるより大らかで豊穣を得る心持ちがしてきやしませんか?
得たものばかりを見すぎて、得損じたものが手元にないからって、縁もなかったと想像もできないでいるよりは、数段格上の視界に思えるのです。
「ないものはなかった」といえるだけの視座がここにはあります。認知できないまんまの「無さ」とは雲泥の差です。

