18年目の節目 さようなら、またね、みんな | アメブロなpandaheavenブログ

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最近漫画の先生始めました。
好評です☆

写真を撮ったり映画を見たり。でもやっぱり普通が一番!
みんなも無理しないでね!

(これはウン十年以上前のエッセイです)

 

仕事がひとつ終わります。アルバイトから入ってきたお店が、昨日で終了となりました。
大阪から戻ってきてからずっとここでやってきました。いろんな人にあって、いろんなことがあって、「ほんとうに終わるの?」かどうかも見極めにくい程、「いつも通り」の様子で終わりを迎えられて、驚いてもいます。

閉店が決まってから、どこか日常生活を「イレギュラー向け」に抑制モードに入っていて、派手なこととか思い切ったことを自然と避けていました。

隙を見せると、寂しい気持ちが出るので、知らんぷりをするつもりでいましたが、今回は真正面から見受けてみるように心がけました。いっそ正視してしまうと、寂しいには違いないのですが、「心が避けること」に比べたら、地に足の着いた感じがして、ある日を境に「ポジティヴ」に転向しました。

お店がひとつなくなる、というのは、「仲間」も「知り合ったお客」も「立ち寄れる場所」もごっそり失うことです。ある日を境に、まるきりそこがなくなります。
これをすでに3店体験してました。もう嫌でした。4つめの今回は、「最後の一つ」です。

「居場所」を失うっていうのは、そこまでにかけてきた手間ひまや気持ちも失うことです。

無理をすれば、もう少しなんとかなったとも分かります。
でもどの店も大きな変化を希望しませんでした。「今まで通り」を変えない、やりかたもあるんだと思います。

時代の流れ、ってものがあるので、ある一時期に「時流」にのって生まれたものは、勢いを持ちますが、時流によってなくなってもいきます。
どんなにいいものを提供しても、どんなに頑張っても、なくなっていくことがあります。
自分の精一杯だけじゃ足りなくて、「頑張ってる」だけでは追いつかなくて、徒手空拳な、ぼんやりとした無力感にもさいなまれます。

がっかりしてますけど、新しく生き直す分岐って立ち位置も強く意識されてます。
今回の「終わり方」をどう過ごすかで、次に始まる「なにか」の「動機」になります。
だからみんなには自信たっぷりに「いつも通りに終わる」ことを強調してきました。
終わっちゃうのに、いつもの通りに、です。

いつも通りのはずがないんです。
それを「いつも通り」にし通した、仲間のスタッフに、お客さんに、本当に頭が下がります。
感謝してます。

「いつも通り」は当たり前のもんなんかじゃなく、誰かたちが、一斉に「いつも通り」を維持する心根をもって、のぞんでくれていて、「辛うじて」でふわふわと成り立っています。
なくなる時はあっというまです。そして「いつも通り」が「自然」なものというよりも、複数の人の努力、工夫がより合わさって組み上がっていたお祭りのようなものだったと気づきます。

一旦失えば、元通りもありません。なくなったきりです。
みんなが「持ち寄って」できてたものなので、持ち寄ってきてたものを、各々が持ち帰れば、そこには「元通り」はもうできないのです。たとえ「持ち帰り戻しても(?)」、それはもう「元通り」ではなく、「いったん持ち帰ったものの寄せ集め直し」という、別物です。


だからなくさないようにしてきたことなのに。

ここから、一斉に人数分の「仕切り直し」もはじまります。
生きてる限り、別のことをはじめます。新しい場所と出会いを、何度も何度も繰り返すんです。

うまくいったり、いかなかったりするでしょうけど、いいんです。
見ず知らずの「他人」にもなれるけど、もうすでに「知ってしまった」人として、これから生きてくどこかで、偶然のように出あったら「今、なにしてるの?」って、話すこともできる。
 

そのとき、今回の「おっきな離別」があってこそ、はじめて手に入れる生き方の価値が分かるんだと思う。
いいスタッフばかりだから、みんないろんな体験をすると思う。それがどこかで話せるのならきっといいことになるんじゃないかとも思う。強がりかもしれないけど、そう思う。

ああ、やっぱり駄目ですね。
全然まとまらない。

ここまでこれ打ったけど、まだ10日は残務処理もあるから、まるきり終わってる訳じゃないのもあるけど、自分の中で整理ついてないんでしょうね。
だって18年やってきたことが霧散しようとしている境にあるんです。

今、記録しないと、後日じゃ別の「自分がしたい見立て」に記憶が改ざんされちゃう気がして、
無理して打ってみました。



さて、上の記事から3週間経過して、片付けも一段落。新しい生活に向かえるのかどうかってところまできました。

一緒に日々いた人たちには会わない日々なので、ぽっかり穴があいたようです。
この生き様のうちに、何度も味わっているものなので、きっと私の生き方をしていると、これが伴うものなんでしょうと思いつつ、きっと誰もが同じ思いを抱えてるような気もするのです。

反面、自分は自分が言ってきたことをやってきただろうかなどとも振り返るのです。見栄ばかり切って実の伴わない人になっているんじゃないか、と。


昔と言ってることで一つ大きな違いがあるとすれば、「他人に開かせてもらう縁を信じる」ところで、昔ほどギリギリと、ことごとく自力で、とはやれなくなりました。「やらなくなりました」ではないのは自分一人でまかなえるサイズのことは、自分一人サイズになってしまうからです。

人は他人のためなら頑張れてしまいますが、自分のことだけですと、あきらめることもできてしまいます。
また、他者の着想に、何度も助けられてもきました。

こういう節目の時に感じるのが「頭のいい人」と「かつては要領の悪かった人」がいつもはっきりすることです。
前者は鼻が利き、俊敏に立ち位置を変えて、ピンチをしのぐことに長けています。ああ、頭いいなあって思います。

 

おかげで「真のピンチ」に出くわすことも、立ち会うこともありません。「それを避けるため」に鼻を利かせているからです。それを「セーフ」って思ってる節も見受けられます。
 

一方後者は、天性の要領の悪さから、最初はもたつく仕事ぶりだったり、首になりかけたりします。長くやっていることで「慣れ」が居心地を作るタイプで、いざピンチってときには、その鼻の利かなさゆえに土壇場に出くわしています。居尽くしてしまうのです。「自分にとって損得」以外の行動原理で過ごしてる人が多いので、ピンチをさほどピンチと認識していない節も見受けられます。大雑把にたくましいのです。

事前に回避する「頭のいい人」と、ピンチを自分に囲わせまくる「かつては要領の悪い人」では、私は後者が大好きです。普通の神経では見てられないものまで、最後までご一緒してくれるのです。
 

それは頭の悪い行動かもしれません。人としての「懐の深さ」は断然頭の悪い人に軍配が上がります。
私は好きですが、本人はそれほど幸せじゃないかもしれませんね。でもピンチを一緒に過ごし、かけ抜けてきた信頼感は、この臨場感ともども、他の機会では醸成しなかった、一過性の、でも絶対この人は次回も大丈夫な人だ、といういい知れぬ安定感を肚の底に感じられます。
こうなると、遠くにいても、時間が経っても、会いたい人になります。

この立ち位置から、「避けられるものを避けた」人を見ると「頭がいい人」には映らずに「逃げた」だけにしか映らず、もうその人に対して感情を使うのが惜しいほどの無関心カテゴリーに入ってしまいます。長期的には、遠巻きに「損」を囲ったふうにも見えてきます。
おおむね「もう同じ息を吸ってたくもない」心持ちになります。私は狭量ですね。

世の中は要領の良さでも生き抜けますが、それゆえに「見損じた」ものこそが核である場合があります。
「上手く立ち回る」というのは「方法」とか「手段」であって、目的ではありません。
若い人程、スマートにやりたがる人ほど、その傾向は顕著に感じます。

でも、その時に「見なくちゃいけなかったもの」を回避した人生は、厚みが薄いと思います。
ピンチだあろうと、コテンパンであろうと、そのときそこで出くわすべきものは「味わい尽くす」方が、絶対大事です。だって、そればかしの「成果」を見るがためにそこにいたようなものです。「成功」も「失敗」も色分けせずに言うなら、「たどり着いたもの」を味わい尽くすがために、居合わせ続けたわけですから、最後の最後に立ち会っていないというのは「おいしいとこ取り」のつもりで逃げ出した人には、真の意味で大怪我です。

どんなプロでもそうです。
「やり続ける」人だけがプロです。
ピンチに居合わせ続ける馬鹿さもプロです。
「逃げ出せなかった」要領の悪さも、またプロなのです。
プロでなくたって、全くかまいませんが、「見通す」「居通す」愚直さにも拓く花があると私は思っておるので、今日明日で成果を見返るほど短期スパンで報われちゃうのは嫌なんです。
欲張りなんですよ。でっかく取り返します。

ですから数年数十年しょんぼりし通しでも持ちこたえますよ。成果はそのあとで、ってね。
予感できちゃうようなサイズの成果じゃ済ましません。