(これはウン十年以上前のエッセイです)
イタリア未来派
1909年、イタリアの詩人、F・T・マリネッティがフランスの大新聞「ル・フィガロ」に「未来派宣言」を発表した。
このとき、未来派なる組織はまだ存在してなかった。未来派の素敵な所はここで、「実行よりもまず宣言」という格好悪さ、である。うんうん、見習いたい考え方じゃないか。
「われらは危険への愛、エネルギー、そして冒険をうたいあげる。
われらは世界に新しい美が加わったことを断言しよう。
それはスピードの美である。
もはや戦いの中にしか美は存在しない。
攻撃的な性格をもたない作品に傑作はあり得ない。
われらは何世紀もの歴史の崖っぷちに立っている。
われらが不可能の神秘の扉を突き破ろうとするなら、なぜ後ろを振り向く必要があるのか?」
時々うなずけたりするんだけど、なんなんだろう、この本気ぶりは。
当時はフロイト、アインシュタインが旬な御時世で、飛行船、汽車などで、世界が大きく「動き」に向かう頃合だったらしい。そんな中未来派は「スピードを賛美」し、「新しい乗り物を賛美」し、そして「雑音が好きだ!」「19世紀的なものはすべて壊してしまえ!」「テクノロジーならなんでもいい!」と、きてる。
「宣言文」という形で演劇、映画、ラジオ、音楽、ファッション、料理、スポーツ等、多様なジャンルに食い付いてゆき、20世紀文化に夢をみていた。もうすでにこのおおぶろしきなところが、私には愛おしい。
次に大きく5項目のコンセプトに話を移そう。
- スピードの美
当時、「交通革命」として「馬」から「自動車、汽車、飛行機、飛行船」と移った時代なのだった。未来派は「スピード」を讃えてる。それだけじゃなく具体的に作品に「スピード」をとりこんだ。
「鎖につながれた犬のダイナミズム」(ジャコモ・バッラ1912年)など犬をつれた貴婦人の絵なのだが、犬の足の動きを「スピード」で表すためにパタリロの「ゴキブリ走行」のようになっている。
前足も後ろ足もシッポまでもブレて描かれている。犬のみならず、貴婦人の足までもが同じように描かれる愚直さ!!
当時写真は発明されたばかりで、ストロボ効果を意識したものらしく、作品は他にも似たように「タイピスト」なるものもやはり手許のブレた写真だったりする。これが作品、なのだ。おお、おお!
- 無線想像力
はるかな地に同時に声やメッセージを送る電信技術をヒントに、従来の文法や心理を破壊する新しい言語感覚を提唱したものを「無線想像力」と称した。
で、具体的にはやはり愚直に作品に反映させてる。
大砲の音をそのままマンガの擬音のように、ふきだし状の挿し絵タッチに描いた「ZANG TUNB TUUUM」。・・・・・・え~~~~ってなものである。凄いセンスだと思う。「目で見る視覚的な詩」なんだって。
え~~~~~~っ!
「汽船、自動車、大西洋横断汽船、電報、電話、蓄音機、新聞・・・人々は多様な通信、輸送手段の情報が精神にもたらす決定的な影響にまだ気がついていない。速度によって地球うは縮小され、逆に人間の感覚は巨大になり、全人類と自分との関係を、緊急に定める必要が生じたのだ。」
うわぁ、その通りじゃん。すげえもっともなのだ。まともなことなんだけど、気がつきにくい話なのだ。
マリネッティさんは、同時性の概念を実践するために「ラジア」なることをしようとしたらしい。資料によると
「ラジオの電波にのってあらゆる空間に同時に飛んでゆき、複数の筋を同時、多発的に行う」
予定だったそうだ。「ラジア」は「無線演劇」なんだって。面白そう。パリともでラジオ局もてたら、是非やろうなぁ。
- 雑音!
「あ~ン?」といぶかしむ方もいらっしゃることでしょう。しかしコイツらは本気ですので、あなどれません。それは19世紀までの音楽に対するアンチテーゼなんだってんだから、いいじゃないですか。「近代都市、工業機械の発する雑音を20世紀の音楽!」としたと言うのです。
それにとどまってる未来派じゃありませんよ。イントナルモーリなる「雑音発生器」まで作りました。モーター駆動で「雷鳴」「疾風」「摩擦」「打撃」と、様々な雑音を発生・・・・・・恐すぎ。
「こうしてわれらの工業都市のモーターと機械は、やがて知的に調律され、あらゆる工場で雑音の陶酔オーケストラがうまれるであろう!」ときた。
ウハァ!
上のようなことからわかるように、20世紀テクノロジーを賛美、変革のための闘争を祝福した人々なので、いきおいテクノロジー=力=男性、と考えは進み、この裏返しに生まれたコンセプトが
- 女性蔑視
この人たちは力と力のぶつかりあいをたたえるのである。積極的に女性的なものを切り捨てて、結果的に自分たちを「19世紀的なるもの」にさせてしまった。この自滅!このブザマ!なんて本気なんでしょう。
挙げ句に続くコンセプトが
- 戦争賛美
これが未来派の活動に終止符を打った(これを聞いて私は大笑いしてしまった。不遜でしょうか)。
「われらは世界の唯一の健康法である戦争、軍国主義、愛国主義をたたえ、(中略)命をささげるに値する美しい理想をたたえ、そして女性蔑視をたたえよう」その後の1914年、第一次大戦でマリネッティは戦争介入を呼び掛け、「この戦争こそこれまでにあらわれた未来派の最も美しい詩だ。未来派は戦争が芸術に殺到することをまさに告げる。革新的な芸術家を軍人にしようとする」
科学、芸術の進歩を信じ、19世紀はダメッ!って決めた未来派は、どんどん戦争に参入していった。
ボッチョーニは騎兵として戦死、マリネッティ、ルッソロも負傷。実質的な運動はここに幕をおろしたそうだ。
結局、1920年台にはファシズムが台頭、バウハウス、無意識(フロイト)が実質的に後世に残れたのに対し、未来派は打ち上げ花火をあげたにすぎなかったとTVではしめくくっていた。「未来」を思想の根底に置く限り、「宣言」という形でしか運動できなかった、とも表現していた。「同時性」という新しいタームをつくったのも彼等らしい。
同時にみる、きく、感じるを、世界のみんなが感じられる、と無線がメディアの時代の彼等がすでに叫んでいたのだ。
新しい身体感覚。今でこそ当たり前なものが、キチンと運動としてとらえ直しをしていた人たちがいたんですな。本気すぎて格好悪かったりする終わり方になっちゃってるけど、こここそイタリア気質のようなおもいきりの良さ、潔さだと思えて愛おしいです。「良い」とも「悪い」ともとらずに、そのまま「イタリア未来派っていいなぁ」と羨望することをわたしはお薦めしたいです。
